『天使と悪魔の絵画史』 春燈社編
人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして全ての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らを選り分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国をうけつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、乾いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてくれたからである」(中略)それから、左にいる人々にも言うであろう。「呪われた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、乾いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである」(中略)そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。
キリスト教における“最後の審判”の捉え方ですね。とっても単純で、分かりやすいですね。最後にこう付け加えてもらえると、もっといいんじゃないかと思います。
「文句がある奴は、かかってこい!」
右側に置かれた羊さんなんてのは、まず、いるはずがありません。「自分は右側の羊さん」なんて安心している人がいるとすれば、それは記憶力がないに等しいか、よっぽど図々しいか、あるいは人の皮を被っただけの聖職者かのいずれかでしょう。
みんな、どこかに左側の山羊さんという思いがあるからこそ、この本に出てくるような天使と悪魔の絵画に恐れ入るわけでしょう。


それにしても、こうしてこの本であらためて見てみると、まず100対0で悪魔のほうが魅力的ですね。
その形態も千差万別。圧倒的な存在感を持つものもあれば、いろいろな獣の特性を備えたもの、ただただ不気味なもの、どこか滑稽なもの。非常にバラエティ豊かで、個性的です。
描く側の人間にしてからが、まばゆいばかりの天上世界よりも、暗く沈んだ地獄界の方がイマジネーションが膨らむようですね。描かれている人々にしたって、喜び、幸せ、憧れ、優しさよりも、悲しみ、苦しみ、悔しさ、絶望の方が、表情が豊かです。
最後の方に出てくる、“ペストが生み出した悪魔”なんて、とっても魅力的ですね。さらには“悪魔と交わった女性”をモチーフにした絵画なんて・・・。たまりませんね。
キリスト教美術、天使と悪魔の絵画と言っても、ひたすら頭の中で作り上げたものですから、人間の世界の焼き写しでしょう。「アリもしないことを・・・」って言って、風呂敷で一まとめにするつもりは毛頭ありません。その組織も含めたキリスト教会はじめ、キリスト教世界そのものが、“文化”ですからね。そして、その土台になっている時代が中世ですよね。
その中世を持っていることが、ヨーロッパの強さだと思います。それは日本も同じです。日本もヨーロッパも、その中世を自ら否定しようとした時代がありました。でも、現代においても、私たちは自分たちの持っている文化の中に、中世が色濃く残っていることを自覚することができます。それが、おそらく今後、私たちの強さになるんじゃないかと思います。
「今世界を主導しているのは・・・」と考えれば、アメリカと“中国”を挙げざるを得ませんが、その両国が、ともに中世を持たない国であることは、現代世界を理解する上で、非常に重要なように思えます。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国をうけつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、乾いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてくれたからである」(中略)それから、左にいる人々にも言うであろう。「呪われた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、乾いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである」(中略)そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。
《マタイによる福音書 25章31-46節》
キリスト教における“最後の審判”の捉え方ですね。とっても単純で、分かりやすいですね。最後にこう付け加えてもらえると、もっといいんじゃないかと思います。
「文句がある奴は、かかってこい!」
右側に置かれた羊さんなんてのは、まず、いるはずがありません。「自分は右側の羊さん」なんて安心している人がいるとすれば、それは記憶力がないに等しいか、よっぽど図々しいか、あるいは人の皮を被っただけの聖職者かのいずれかでしょう。
みんな、どこかに左側の山羊さんという思いがあるからこそ、この本に出てくるような天使と悪魔の絵画に恐れ入るわけでしょう。
『天使と悪魔の絵画史』 春燈社編 辰巳出版 ¥ 1,430 キリスト教美術の深淵に触れる。神々しく美しい、また不気味で妖しい世界 |
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それにしても、こうしてこの本であらためて見てみると、まず100対0で悪魔のほうが魅力的ですね。
その形態も千差万別。圧倒的な存在感を持つものもあれば、いろいろな獣の特性を備えたもの、ただただ不気味なもの、どこか滑稽なもの。非常にバラエティ豊かで、個性的です。
描く側の人間にしてからが、まばゆいばかりの天上世界よりも、暗く沈んだ地獄界の方がイマジネーションが膨らむようですね。描かれている人々にしたって、喜び、幸せ、憧れ、優しさよりも、悲しみ、苦しみ、悔しさ、絶望の方が、表情が豊かです。
最後の方に出てくる、“ペストが生み出した悪魔”なんて、とっても魅力的ですね。さらには“悪魔と交わった女性”をモチーフにした絵画なんて・・・。たまりませんね。
キリスト教美術、天使と悪魔の絵画と言っても、ひたすら頭の中で作り上げたものですから、人間の世界の焼き写しでしょう。「アリもしないことを・・・」って言って、風呂敷で一まとめにするつもりは毛頭ありません。その組織も含めたキリスト教会はじめ、キリスト教世界そのものが、“文化”ですからね。そして、その土台になっている時代が中世ですよね。
その中世を持っていることが、ヨーロッパの強さだと思います。それは日本も同じです。日本もヨーロッパも、その中世を自ら否定しようとした時代がありました。でも、現代においても、私たちは自分たちの持っている文化の中に、中世が色濃く残っていることを自覚することができます。それが、おそらく今後、私たちの強さになるんじゃないかと思います。
「今世界を主導しているのは・・・」と考えれば、アメリカと“中国”を挙げざるを得ませんが、その両国が、ともに中世を持たない国であることは、現代世界を理解する上で、非常に重要なように思えます。

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