『峠を歩く』 中川健一
私は埼玉県の秩父の生まれです。
秩父は盆地です。盆地の中は、外からは隔絶されているとは言え、それなりの文化を持って開けているんです。ただ、秩父に入るためには、その周辺の山岳地帯を越えなければなりません。今は、通常、車や電車で越えることになります。私がはじめて連れ合いを両親に合わせたとき、西武秩父線で秩父に向かいました。吾野あたり、山に挟まれた渓谷沿いを列車が進んでいる時に、連れ合いが言いました。「ここよりも、もっと先なの?」
“先”なんです。
その“先”で正丸峠を越えて、秩父に入るんです。列車は正丸トンネルをくぐることになります。私がガキンチョの頃、西武鉄道は、すでに吾野まで来ていました。でも、秩父には通じていなかったんです。正丸トンネルができたのは、私が小学4年のときです。秩父市内の小学校に通う子どもは、西武鉄道に招待されて、電車で正丸トンネルをくぐりました。あの時の感動は、今も記憶に残ります。
来年還暦を迎える私の世代なら、その多くは青年期を迎える時に秩父を出ます。大学教育を受けるためであったり、秩父では得られない仕事の機会を見つけるためであったりします。その時、秩父の若者は皆、なにがしかの峠を超えるんです。
この本は峠の本。著者の中川健一さんは、建築業という仕事から断層に興味を持ち、その露出している峠を訪れるようになったんだそうです。その後、峠そのものの魅力に引かれるようになり、日本に3773ヶ所あるという峠のうち、現在普通の人が歩いて訪れることができる2954ヶ所を完全制覇したんだそうです。・・・すばらしい!


“峠”という漢字は和製漢字、日本で生まれた漢字ですね。うまいこと作ったもんです。「山偏に登って下る」ですからね。登りきったところが峠で、そこから道は下って、そこには違う世界が広がるわけです。こっちの世界とあっちの世界を分けるのが峠なんですね。同時にこっちの世界からも、あっちの世界からも、一番遠いのが峠です。しかも、深い山の中。危険もあります。だから、峠にいる道の神さまにお供えを手向けて守っていただいたんだそうです。
「たむけ」、それが「とうげ」の語源だそうです。
馬に乗せられた花嫁は親族に守られて峠に向かい、そこで夫の親族に受け渡されていきました。峠を通って、絹織物などの大事な品物が江戸の町に運ばれていきました。少女たちは、峠を越えて街に出て、女工として働きました。峠に陣を張り、敵に対峙しました。父親は息子のために峠を越え、病気平癒のお札をもらって帰りました。
そう思えば、峠には多くの人々の思いが漂っているに違いありません。
《厳選峠!33の物語》においては、この間行った大菩薩峠が初っ端です。続いて天城峠、金精峠、雁坂峠、安房峠と、私の山体験の中に登場する峠が続きます。中でも雁坂峠には、高校時代にたびたび歩荷やアルバイトに通った山小屋があります。広々としている明るい峠です。・・・そうかぁ、ここは武田信玄の軍用道路の一つの要衝だったんですね。
《絶対に行きたい峠120》には、歩きなれた奥武蔵の妻坂峠が取り上げられています。いい名前でしょう。秩父の荘官であった畠山重忠が鎌倉に出向くとき、ここまで妻に見送らせて別れを惜しんだのが由来とか。ここは大持山と武川岳の鞍部で、上杉謙信が大持山に陣を張って北条氏に対峙したとか。
峠には、人の跡が感じられます。
これも一つ、山の歩き方になりうるかも知れません。
秩父は盆地です。盆地の中は、外からは隔絶されているとは言え、それなりの文化を持って開けているんです。ただ、秩父に入るためには、その周辺の山岳地帯を越えなければなりません。今は、通常、車や電車で越えることになります。私がはじめて連れ合いを両親に合わせたとき、西武秩父線で秩父に向かいました。吾野あたり、山に挟まれた渓谷沿いを列車が進んでいる時に、連れ合いが言いました。「ここよりも、もっと先なの?」
“先”なんです。
その“先”で正丸峠を越えて、秩父に入るんです。列車は正丸トンネルをくぐることになります。私がガキンチョの頃、西武鉄道は、すでに吾野まで来ていました。でも、秩父には通じていなかったんです。正丸トンネルができたのは、私が小学4年のときです。秩父市内の小学校に通う子どもは、西武鉄道に招待されて、電車で正丸トンネルをくぐりました。あの時の感動は、今も記憶に残ります。
来年還暦を迎える私の世代なら、その多くは青年期を迎える時に秩父を出ます。大学教育を受けるためであったり、秩父では得られない仕事の機会を見つけるためであったりします。その時、秩父の若者は皆、なにがしかの峠を超えるんです。
この本は峠の本。著者の中川健一さんは、建築業という仕事から断層に興味を持ち、その露出している峠を訪れるようになったんだそうです。その後、峠そのものの魅力に引かれるようになり、日本に3773ヶ所あるという峠のうち、現在普通の人が歩いて訪れることができる2954ヶ所を完全制覇したんだそうです。・・・すばらしい!
『峠を歩く』 中川健一 内外出版社 ¥ 1,760 戦国時代から現代まで、人の暮らしの歴史が刻まれた峠を歩き方 |
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“峠”という漢字は和製漢字、日本で生まれた漢字ですね。うまいこと作ったもんです。「山偏に登って下る」ですからね。登りきったところが峠で、そこから道は下って、そこには違う世界が広がるわけです。こっちの世界とあっちの世界を分けるのが峠なんですね。同時にこっちの世界からも、あっちの世界からも、一番遠いのが峠です。しかも、深い山の中。危険もあります。だから、峠にいる道の神さまにお供えを手向けて守っていただいたんだそうです。
「たむけ」、それが「とうげ」の語源だそうです。
馬に乗せられた花嫁は親族に守られて峠に向かい、そこで夫の親族に受け渡されていきました。峠を通って、絹織物などの大事な品物が江戸の町に運ばれていきました。少女たちは、峠を越えて街に出て、女工として働きました。峠に陣を張り、敵に対峙しました。父親は息子のために峠を越え、病気平癒のお札をもらって帰りました。
そう思えば、峠には多くの人々の思いが漂っているに違いありません。
《厳選峠!33の物語》においては、この間行った大菩薩峠が初っ端です。続いて天城峠、金精峠、雁坂峠、安房峠と、私の山体験の中に登場する峠が続きます。中でも雁坂峠には、高校時代にたびたび歩荷やアルバイトに通った山小屋があります。広々としている明るい峠です。・・・そうかぁ、ここは武田信玄の軍用道路の一つの要衝だったんですね。
《絶対に行きたい峠120》には、歩きなれた奥武蔵の妻坂峠が取り上げられています。いい名前でしょう。秩父の荘官であった畠山重忠が鎌倉に出向くとき、ここまで妻に見送らせて別れを惜しんだのが由来とか。ここは大持山と武川岳の鞍部で、上杉謙信が大持山に陣を張って北条氏に対峙したとか。
峠には、人の跡が感じられます。
これも一つ、山の歩き方になりうるかも知れません。

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