めんどくせぇことばかり 『日本人は本当に無宗教なのか』 礫川全次
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『日本人は本当に無宗教なのか』 礫川全次

私が最初に体験した身内の葬式は祖父のものだった。

当然のように、自宅で行った。それから10年以上たってから祖母の、あまり時間を置かずに母の葬式となったが、いずれも自宅で行った。母の葬式は真夏だった。焼き場は程なく取れたが、やはり自宅での葬式なので、障子をはじめ、部屋の間仕切りを取っ払っているから冷房なんて効くはずがない。炎天下で会葬者を出迎えていた時は、背中を汗が流れ落ちるのが分かった。いくら冷やしてもぬるくなってしまうビールに、坊主が不満を漏らしていた。

葬式を仕切るのは隣組というのがしきたりで、お勝手ごとなどに家人は口を出してはいけないことになっていた。うちのお勝手には隣組の“女し”が陣取って母も口出しはできない。除いてみると、家人そっちのけで、自分たちでご飯を食べていたりする。アラアラ・・・。

うちは本家で、父は7人兄弟だから、祖父母の葬式に関しては叔父叔母が何かとにぎやかだった。隣組の仕切りがうまくいかなければ、叔父叔母は自分で動く。それでも隣組を立てて、不平はもらさなかった。

母の葬式から10年以上たってから行われた父の葬儀は、葬儀ホールで行われた。やはり、暑い季節だったのだが、これはきわめて快適だった。仕切りの悪い隣組にイライラする事もなく行われ、最後に直会で一杯飲んで終わりと言うだけのことだった。その時の葬式から、俗信、迷信的なことが極端に少なくなった。それでも親族は、お経の間、頭に白い三角を付けた。あれは他所の人が見るとギョッとするに違いない。

叔父や叔母からは、隣組の前で立派に振る舞うことを、しつこく諭された。尻込みでもしようものなら、「ほら早く!」と急かされた。

そういった親族、隣組の外には町会があって、さらには遠縁の親戚が連なっていた。その中で、自分がどこの誰であるかをしっかり述べなければ、存在証明ができないことになる。

ヴィンチ村のレオナルドです。

それが嫌だった。

父が7人兄弟だからいとこは多い。父には姉が一人いて、そこのうちのいとこたちは、私たち兄弟と同じ経験をしている。でも、そのあたりが時代の変わり目で、あれだけ本家の子どもに厳しかった叔父叔母も、自分の子どもたちはそれを求めていないのだ。

父の葬式もそうだけど、隣組に頼らなければならないこともなくなった。隣組の前でどう振る舞おうと、関係なくなったんだ。町会のことも行政が肩代わりしていったし、遠縁はもっと遠くなって、そのうち消えた。
著者は、三つの側面で、日本人は無宗教だと結論している。

一つ目は、宗教を特定の信仰団体と捉えた上で、そういった信仰団体に属していないという意味での無宗教。次に、通常、人間は様々な習俗・習慣に制約されながら生活しているが、そうしたものは宗教ではないという意識が強いと意味での無宗教。



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かつての日本では、宗教と習俗とが人々の心を支え、社会や共同体を支えていた
第1章 かつての日本人は宗教的だった
第2章 近世における「反宗教」と「脱宗教」
第3章 本居宣長と平田篤胤の思想
第4章 幕末に生じた宗教上の出来事
第5章 明治政府は宗教をいかに扱ったか
第6章 明治期における宗教論と道徳論
第7章 昭和前期の宗教弾圧と習俗への干渉
終章 改めて日本人の「無宗教」とは


最後の一つは、日本人の多くが宗教と意識していない習俗や習慣だが、実は背景に日本人的な信仰心に裏打ちされていた。しかし、その日本人的な信仰心はすでに崩壊し、その機能を失っているという意味での無宗教。

前の二つは意識としての無宗教、三つ目は事態としての無宗教ということになる。

私は、日本人的な信仰心は、いまだに健在であると考えている。その信仰心というのは、個人的な制約という背景はあるものの、社会の秩序を良好に保つことに大きな役割を果たしてきた。それは、ただ社会の秩序を良好に保つと言うだけでなく、それを次の世代につなげていくという点においても大きな役割を果たしてきた。

その根本にあるものは、祖先崇拝とともに、自然への畏怖がある。祖先崇拝が形骸化しているとしても、自然への畏怖がある以上、日本人的な信仰心が大きく様変わりしてしまうとは思えない。

ただ、昭和の時代の戦争の悲劇も、背景に日本人的な信仰心があったと思う。その、日本人的な信仰心の負の側面というのは、私たちはなんとしても克服していかなければならないものだと思う。にもかかわらず、いまだに私たちは、それを克服できていない。

逆に私は、そのことを心配している。

戦後の変化はたしかに大きい。戦争に負けたということのトラウマは、限りなく大きい。アメリカに世の中を作り直されてしまったことも、とてつもなく大きい。

それ以降、日本社会は、徐々にではあるが、様々なしがらみから開放されていった。そのしがらみってのが、宗教を補完する習俗・習慣を裏付けていたものではないかと思う。そしてそのしがらみは、私たちが時に、絆と呼ぶもので、徐々に、そういう絆をを失いながらも、それがあった時代に培われた日本人的な信仰心というのは、そう簡単になくなるものではないと思う。

自然へ畏怖は、それくらい日本人にとっては大きな問題なんだろう。

その点に対する言及は、この本にはなかったように思う。






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テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本








































































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