『歴史への遺言』 渡部昇一
渡部昇一さんが亡くなって2年半か。
実は、渡部さんには大恩がある。私は意識して人を近寄らせないようなところがあって、同時に自分から人に近寄っていくのが嫌いだ。もちろん、必要があればする。しかも、自分で言うのもなんだけど、人の間合いに入るのがかなりうまい。でも、平素はそれはしない。
だから必然的に、私の師は本であった。
高校の頃から左翼系の思考に引っ張られた。だんだんいい歳になってきて、行き詰まった。暗中模索から抜け出せたのは、渡部昇一さんの本のおかげだった。だけど人間関係もあって、そちらの組織と縁を切るまでには、また時間がかかったけどね。渡部さんの本を、渡部さんを師と仰いでもう四半世紀になる。
編集後記の最初にある。
『渡部昇一先生は日本を愛し、日本人であることに強い誇りを持っていた。それだけに、戦後GHQ(連合国軍総司令部)の手で植え付けられ、左翼マスコミによって広められた「日本罪悪史観」を見過ごすことができず、そうした歪んだ見方を正すべく、長い間、「日本の主張」(いいかえれば、日本人として知っておくべき歴史の真実)を繰り返し説いて止むことがなかった。』
そう、まさに私は、GHQの手で植え付けられ左翼マスコミによって広められた「日本罪悪史観」に踊らされた。分別のつくいい歳になって行き詰まった頃は、とても大変だった。歴史教員だからね。いくらイデオロギーで飾り立てようと、嘘は嘘。渡部さんが、そんな「日本罪悪史観」を見過ごすことが出来ず、日本人として知っておくべき真実を繰り返しといて止むことがなかったおかげで、私は本当のことを知る勇気が持てた。



それなりに人間関係を作ったから、それからも苦しかった。言い合いにもなり、飲みに行っては皿が飛んだこともある。人間関係はどんどんちぎれた。組織を抜けるまでにはさらに時間がかかった。それなりの責任を果たして、抜けた。残ったのは、イデオロギー抜きで付き合える関係だけだった。
イデオロギーを捨ててからは、歴史の授業は、とてもやりやすくなった。本当のことを言っていればいいんだから。だけど、学校ってところは、ここのところ日教組の力は弱まっているものの、色合いとしては、いまだにリベラルが強い。日本史の教科書なってひどいもの。はっきり言って、嘘が書いてある。
なぜそれが嘘と言えるのか。・・・例えば、一番わかりやすい例の一つが、《日本は無条件降伏した》ってやつ。生徒にポツダム宣言の本文を提示して、それを否定した。
“あちら”の方から、「授業を見せてくれ」というのもあった。もちろん見せてやった。何にも言わずに帰って行った。その後も何度か、「授業を見せてくれ」と言ってくる“あちら”の方がいたが、それ以降は、「ただで?」とお聞きすることにした。こちらから見にに行ってやろうかと思ったが、めんどくさいからやめた。
こっちからは一切動かなかった。正味で、授業を参考にさせて欲しいという若い人もいた。請われれば応じ、どういう風に授業を展開すればいいか語り合った。質問されるのは、だいたい専門の世界史についてだったが、それは大変楽しい時間だった。年齢差は25歳くらいあったと思うが、ほぼ同じ地平でやり合えた。
教員として歴史の授業をしていた時は、とにかく歴史を面白いものと捉えられるように教えることを心がけた。“歴史は虹のようなものである。それは近くによって、くわしく見れば見えるというものではない。近くによれば、その正体は水玉に過ぎない。”・・・だから、ほらほら、こっちに来て、ここから見てみ。ほらあそこ、虹が出てる。
私の声は大きくない。それほど多くの人の耳には届かない。でも、きれいな虹が見られるようになった奴も、何人かはいるかもしれない。
渡部昇一先生のおかげです。
実は、渡部さんには大恩がある。私は意識して人を近寄らせないようなところがあって、同時に自分から人に近寄っていくのが嫌いだ。もちろん、必要があればする。しかも、自分で言うのもなんだけど、人の間合いに入るのがかなりうまい。でも、平素はそれはしない。
だから必然的に、私の師は本であった。
高校の頃から左翼系の思考に引っ張られた。だんだんいい歳になってきて、行き詰まった。暗中模索から抜け出せたのは、渡部昇一さんの本のおかげだった。だけど人間関係もあって、そちらの組織と縁を切るまでには、また時間がかかったけどね。渡部さんの本を、渡部さんを師と仰いでもう四半世紀になる。
編集後記の最初にある。
『渡部昇一先生は日本を愛し、日本人であることに強い誇りを持っていた。それだけに、戦後GHQ(連合国軍総司令部)の手で植え付けられ、左翼マスコミによって広められた「日本罪悪史観」を見過ごすことができず、そうした歪んだ見方を正すべく、長い間、「日本の主張」(いいかえれば、日本人として知っておくべき歴史の真実)を繰り返し説いて止むことがなかった。』
そう、まさに私は、GHQの手で植え付けられ左翼マスコミによって広められた「日本罪悪史観」に踊らされた。分別のつくいい歳になって行き詰まった頃は、とても大変だった。歴史教員だからね。いくらイデオロギーで飾り立てようと、嘘は嘘。渡部さんが、そんな「日本罪悪史観」を見過ごすことが出来ず、日本人として知っておくべき真実を繰り返しといて止むことがなかったおかげで、私は本当のことを知る勇気が持てた。
『歴史への遺言』 渡部昇一 ビジネス社 ¥ 1,650歴史というものは虹のごときものである。近くによれば、その正体は水玉にすぎない |
|
それなりに人間関係を作ったから、それからも苦しかった。言い合いにもなり、飲みに行っては皿が飛んだこともある。人間関係はどんどんちぎれた。組織を抜けるまでにはさらに時間がかかった。それなりの責任を果たして、抜けた。残ったのは、イデオロギー抜きで付き合える関係だけだった。
イデオロギーを捨ててからは、歴史の授業は、とてもやりやすくなった。本当のことを言っていればいいんだから。だけど、学校ってところは、ここのところ日教組の力は弱まっているものの、色合いとしては、いまだにリベラルが強い。日本史の教科書なってひどいもの。はっきり言って、嘘が書いてある。
なぜそれが嘘と言えるのか。・・・例えば、一番わかりやすい例の一つが、《日本は無条件降伏した》ってやつ。生徒にポツダム宣言の本文を提示して、それを否定した。
“あちら”の方から、「授業を見せてくれ」というのもあった。もちろん見せてやった。何にも言わずに帰って行った。その後も何度か、「授業を見せてくれ」と言ってくる“あちら”の方がいたが、それ以降は、「ただで?」とお聞きすることにした。こちらから見にに行ってやろうかと思ったが、めんどくさいからやめた。
こっちからは一切動かなかった。正味で、授業を参考にさせて欲しいという若い人もいた。請われれば応じ、どういう風に授業を展開すればいいか語り合った。質問されるのは、だいたい専門の世界史についてだったが、それは大変楽しい時間だった。年齢差は25歳くらいあったと思うが、ほぼ同じ地平でやり合えた。
教員として歴史の授業をしていた時は、とにかく歴史を面白いものと捉えられるように教えることを心がけた。“歴史は虹のようなものである。それは近くによって、くわしく見れば見えるというものではない。近くによれば、その正体は水玉に過ぎない。”・・・だから、ほらほら、こっちに来て、ここから見てみ。ほらあそこ、虹が出てる。
私の声は大きくない。それほど多くの人の耳には届かない。でも、きれいな虹が見られるようになった奴も、何人かはいるかもしれない。
渡部昇一先生のおかげです。

- 関連記事