弥勒『菩薩』 速見侑
広隆寺の半跏思惟像は、実際、衝撃的だった。
大好きだった女の子にそっくりだった。まったく、なあ。40年以上前のことなのに、今でもありありと思い出す。気がついたときはもう好きだった。小学生の後半の頃か。もともと、グズグズしている性格なので、何にも出来ないでいてね。反対に、変に意識しすぎて、今考えても恥ずかしいような言行に走ってた。そのまま中学生、高校生。
高校2年の修学旅行だった。私の高校の修学旅行は、昼過ぎに京都駅について、そこからの4泊5日、すべて班別自由行動。5日目の昼過ぎに京都駅に集合して帰る。もちろん、その日、その日、方面を決めて見学して、同じ宿に帰る。決められた時間までにね。先生方にとっては楽な修学旅行だな。
三日目あたりに広隆寺に行ったんだと思う。おそらく嵐山方面を回る予定だったんだろう。そこで、弥勒菩薩半跏思惟像を見たんだ。それが大好きだった女の子にそっくりだった。その子とは小学校から高校まで同じ。小中はみんな知り合いみたいな学校で、そんなところで、好きだのどうだのとほじくり返されるのはまっぴらだし、高校に入ってからは男女共々いろいろな交友関係が出来て、そのうちなんとなく諦めが入って、結局、片思いのまま終わる。
そんなさなか、半跏思惟像を見て、本当にその子にそっくりに見えた。厚ぼったい目元。ふっくらした頬。裸の胸に膨らみはないが、そこにさえ私は、彼女のセーターの胸の膨らみを重ねて、ものすごくなまめかしく見えた。
弥勒菩薩半跏思惟像なら何でもいいってわけではなくて、その後見た中宮寺の半跏思惟像を見ても、その子に重なることはなかった。仏像としては、中宮寺の方がいいと思う。ただ、私は広隆寺の半跏思惟像に、仏像としての何かを期待しているのではなく、そう、手を伸ばすことさえ出来なかった初恋のあの子を思うだけなのだ。恥ずかしながら、今でもね。
弥勒はやがて仏になることが定まっている菩薩。現在は、仏になろうと兜率天で修行中の菩薩。釈迦がこの世を去って五十六億七千年万年で私たちの住む世に下りてきて女に宿り、この世で悟りを得て仏となる。仏となった弥勒は三度にわたって有縁の人々に説法する。これを弥勒三会といい、人々はこの弥勒三会に巡り合って救われる。


弥勒三会は遙かな未来だから、さしあたって現世で善行を積み、死後は兜率天に上生して弥勒のそばで過ごし、弥勒の下生に従って地上に還り、弥勒三会に巡り合いたい。
上生、下生とあるが、最終的な目的は、下生に立ち会い、弥勒三会に巡り合って救われること。まあ、そういうことのようです。
私たちになじみのある死後往生の対象は、まずは極楽往生。だけど、本来は弥勒浄土、阿弥陀浄土、無勝浄土、華厳浄土とあって、信仰上大きな比重を占めるのは弥勒浄土と阿弥陀浄土だったんだそうだ。
奈良から平安までは、結構、弥勒浄土の比重が高かったらしい。法華経によれば、この経の力で、「死後、千仏に手を引かれ、悪趣におちずに兜率天上の弥勒菩薩のところに往く」と説かれているという。
平安時代の終盤、末法到来が盛んに説かれた。当時の計算では永承七(1052)年、世界は末法に落ちるはずだったらしい。仏法は衰え、人身は悪化し、悪事のみが横行する世界。政治を壟断する藤原家によって、国家の利益はすべて吸い上げられ、律令国家はいよいよ最後の時を迎えつつあった。
このような情勢は、来世の浄土を欣求する信仰を高まらせた。人々は、遙かな未来に訪れるはずの、末法の世を救う当来仏弥勒の下生を待ち望んだ。弥勒下生の時に説法を行うと言われる金峰山が参詣人を集めるようになり、空海は弥勒下生を待って、高野山に生身のまま入定したという信仰も生まれたそうだ。
兜率天から弥勒が下生し、弥勒三会の説法により人々は救われる。
これって、イエスが降臨して最後の審判が行われ、イエスを信じる者は救われるってのと、ほぼ同じ。
弥勒下生信仰は、やがて未来の救済から現世の救済へと変化していく。弥勒の下生によって実現する救いの世は、ある意味で理想郷。弥勒下生への期待が社会変革を求める意識と結ぶと、これはある意味で棄権しそうとみなされかねなくなる。たとえば、幕末の世直し一揆には、「呑物、食物はもちろん着物までも不足なく、まことにミロクの世なりけり」と認識されていたらしい。
いつの日か地上に現れるであろう幻のユートピア。・・・かなり危険な思想だな。
はるか遠くの未来に下生するはずの弥勒菩薩なのに、私の夢には時々現れて、今でも私を悩ますんだ。その時の弥勒は・・・。
大好きだった女の子にそっくりだった。まったく、なあ。40年以上前のことなのに、今でもありありと思い出す。気がついたときはもう好きだった。小学生の後半の頃か。もともと、グズグズしている性格なので、何にも出来ないでいてね。反対に、変に意識しすぎて、今考えても恥ずかしいような言行に走ってた。そのまま中学生、高校生。
高校2年の修学旅行だった。私の高校の修学旅行は、昼過ぎに京都駅について、そこからの4泊5日、すべて班別自由行動。5日目の昼過ぎに京都駅に集合して帰る。もちろん、その日、その日、方面を決めて見学して、同じ宿に帰る。決められた時間までにね。先生方にとっては楽な修学旅行だな。
三日目あたりに広隆寺に行ったんだと思う。おそらく嵐山方面を回る予定だったんだろう。そこで、弥勒菩薩半跏思惟像を見たんだ。それが大好きだった女の子にそっくりだった。その子とは小学校から高校まで同じ。小中はみんな知り合いみたいな学校で、そんなところで、好きだのどうだのとほじくり返されるのはまっぴらだし、高校に入ってからは男女共々いろいろな交友関係が出来て、そのうちなんとなく諦めが入って、結局、片思いのまま終わる。
そんなさなか、半跏思惟像を見て、本当にその子にそっくりに見えた。厚ぼったい目元。ふっくらした頬。裸の胸に膨らみはないが、そこにさえ私は、彼女のセーターの胸の膨らみを重ねて、ものすごくなまめかしく見えた。
弥勒菩薩半跏思惟像なら何でもいいってわけではなくて、その後見た中宮寺の半跏思惟像を見ても、その子に重なることはなかった。仏像としては、中宮寺の方がいいと思う。ただ、私は広隆寺の半跏思惟像に、仏像としての何かを期待しているのではなく、そう、手を伸ばすことさえ出来なかった初恋のあの子を思うだけなのだ。恥ずかしながら、今でもね。
弥勒はやがて仏になることが定まっている菩薩。現在は、仏になろうと兜率天で修行中の菩薩。釈迦がこの世を去って五十六億七千年万年で私たちの住む世に下りてきて女に宿り、この世で悟りを得て仏となる。仏となった弥勒は三度にわたって有縁の人々に説法する。これを弥勒三会といい、人々はこの弥勒三会に巡り合って救われる。
『菩薩』 速見侑 講談社学術文庫 ¥ 1,012 菩薩とは、ボーディ=サットバに由来し、「悟りを求める人」という意味を持つ |
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弥勒三会は遙かな未来だから、さしあたって現世で善行を積み、死後は兜率天に上生して弥勒のそばで過ごし、弥勒の下生に従って地上に還り、弥勒三会に巡り合いたい。
上生、下生とあるが、最終的な目的は、下生に立ち会い、弥勒三会に巡り合って救われること。まあ、そういうことのようです。
私たちになじみのある死後往生の対象は、まずは極楽往生。だけど、本来は弥勒浄土、阿弥陀浄土、無勝浄土、華厳浄土とあって、信仰上大きな比重を占めるのは弥勒浄土と阿弥陀浄土だったんだそうだ。
奈良から平安までは、結構、弥勒浄土の比重が高かったらしい。法華経によれば、この経の力で、「死後、千仏に手を引かれ、悪趣におちずに兜率天上の弥勒菩薩のところに往く」と説かれているという。
平安時代の終盤、末法到来が盛んに説かれた。当時の計算では永承七(1052)年、世界は末法に落ちるはずだったらしい。仏法は衰え、人身は悪化し、悪事のみが横行する世界。政治を壟断する藤原家によって、国家の利益はすべて吸い上げられ、律令国家はいよいよ最後の時を迎えつつあった。
このような情勢は、来世の浄土を欣求する信仰を高まらせた。人々は、遙かな未来に訪れるはずの、末法の世を救う当来仏弥勒の下生を待ち望んだ。弥勒下生の時に説法を行うと言われる金峰山が参詣人を集めるようになり、空海は弥勒下生を待って、高野山に生身のまま入定したという信仰も生まれたそうだ。
兜率天から弥勒が下生し、弥勒三会の説法により人々は救われる。
これって、イエスが降臨して最後の審判が行われ、イエスを信じる者は救われるってのと、ほぼ同じ。
弥勒下生信仰は、やがて未来の救済から現世の救済へと変化していく。弥勒の下生によって実現する救いの世は、ある意味で理想郷。弥勒下生への期待が社会変革を求める意識と結ぶと、これはある意味で棄権しそうとみなされかねなくなる。たとえば、幕末の世直し一揆には、「呑物、食物はもちろん着物までも不足なく、まことにミロクの世なりけり」と認識されていたらしい。
いつの日か地上に現れるであろう幻のユートピア。・・・かなり危険な思想だな。
はるか遠くの未来に下生するはずの弥勒菩薩なのに、私の夢には時々現れて、今でも私を悩ますんだ。その時の弥勒は・・・。

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