めんどくせぇことばかり 『未踏の野を過ぎて』 渡辺京二
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『未踏の野を過ぎて』 渡辺京二

東京オリンピックイヤー、・・・最近はオリパライヤーと言わなければいけないのか。何はともあれ、騒々しい年になりそうだ。

昨年のラグビーワールドカップもそうだったけど、スポーツの大きな大会が日本で行われるのが嫌なわけじゃない。むしろ楽しみだ。ただ、勝負事だけに当然勝ち負けがあって、メダル獲得数がどうだの、勝つか負けるかに本来関係のない余分な話題まで持ち出されて、そういうのに付き合わされるのが嫌なんだ。

私は1960年生まれだから敗戦は知らない。この本の著者渡辺京二さんに言わせると、「日本人であることがまるで恥であるかのような、あの自己喪失ぶりは異常としか言いようがなかった」とか。その自信喪失が、高度経済成長で逆に振れ、経済大国と呼ばれて舞い上がる。そしてバブルがはじければ心の支えを失ってまたも自信を失って、失われた30年とか。

世界の中でどうなのか。何によってそれを計るか。経済力か、軍事力か、メダルの数か。

自分で自分を認められるようにならないと、なんとも窮屈でならない。そういう意味では、たった1年とはいえ、早期退職で仕事を辞めたのは良かった。人に歩調を合わせるのはもともと苦手だし、立ち止まりたいところで自分だけ立ち止まることが出来ないストレスはかなり大きかった。

あとは自分の好きなものを見、好きな音を聞き、好きなものに触れ、好きなものを味わっていきたいもんだと思う。人とは、社会とは、そう言ったことを暇に任せて考えていく責任が老人にはあると渡辺さんは言うんだけど、考えたところでそれを世に明らかにする機会が私にはない。

だけどたしかに、それをしないと、ただのわがまま老人にしかなれないのは、まず分かりきっている。周りの人間に、これまで以上の迷惑をかけるのは本意ではない。まあ、本でも読みながら、思いついたことをブログに残すことくらいなら、自分のためと思ってやっているんだけど。

だけど、世の中を正視するのは、やっぱり結構気が重い。「最近の若い奴は・・・」、「最近のテレビ番組は・・・」、「最近の歌謡曲は・・・」、四六時中そんなことを考えることになるんだから。

自分は一帯何が気に入らないのか。私を育ててくれたこのなじみの社会が、自分の好ましいと思うのとは違う方向に行こうとしているのは間違いない。おそらくそれが気に入らないのだが、それはわたしが“最近の若い奴”だった頃の年寄りだって感じていた不満に違いない。

ある時期の社会を統合した価値観が崩壊したと言うだけのことなら、それは何度も繰り返されたことで、新しい価値観のもとに、いずれ社会は再び統合されていく。それは私が死んだずっと後のことになるだろうから、私は不満を抱えたまま死ねばいいのか。




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ことば、生と死、仕事、身分、秩序、教育、環境など現代がかかえる歪みを鋭く分析
無情こそわが友
大国でなければ行けませんか
社会という幻想
老いとは自分になれることだ
文章語という故里
直き心の日本
三島の「意地」
つつましさの喪失
現代人気質について
未踏の野を過ぎて
前口上を一席 不況について一言 不況について再言
「あげる」の氾濫 街路樹エレジー 樹とともに生きる
樹々の嘆き 消え去った含羞 当世流のしゃべりかた
今のしゃべりかた再考 現代の反秩序主義 
覚醒必要な戦後左翼
前近代は不幸だったか
懐古の意味はどこにあるか 江戸時代人にとっての死
身分制は汚点か 主従関係を見直す 家業と家並み
私塾の存立
母校愛はなぜ育ちにくいか
ある大学教師の奮闘
佐藤先生という人


渡辺さんは言葉にこだわる人だから、とある言葉を取り上げている。《「してやる」という言い方が、「してあげる」という言い方におきかえられた》と言うことである。

たしかに、「してあげる」というのは、優しい母が幼児に、恋人同士が相手に用いた言葉なのに、なんだかやたらに使われて、「してやる」という言葉はどこかに追いやられた。渡辺さんは、《こうした猫なで声に満ち満ちた社会なのだ》と言っている。

これには実感がある。若い人たちは、他人に影を見せないように気を張っているように、私には見える。お互いに猫なで声を出して、思いやり一杯の関係を繕っている。多幸感に満ちた社会に見えるが、それにしては不幸な事件がニュース番組で取り上げられることに大きな違和感がある。

失われたものは、《生きる上での根拠についての確信》だろうと渡辺さんは言う。だとすれば大変だ。本来そんなものは、努力せずして存在したものだからだ。例えば、父と母の子というだけで良かった。影森のあの家の生まれというだけで良かった。私は足が悪く生まれたが、その境遇で、長じては教員となり、四苦八苦しながらも30年を超えて務めたという一生で十分だった。それだけのことで、“分”にふさわしい生き方を送ってこれた。

この“分”という言葉については、渡辺さんも取り上げている。「そのことに封建的な身分制度を肯定するものだなどと、間違ってもイチャモンつけてもらうまい」と。実は私も、そうイチャモンをつけられたことがある。自分の分だ。

自分の分だけでは生きる確信とは言い切れず、人に秀でた才能を探し求め、社会的に成功しなければ生きている甲斐がないと思い込み、人との間になにかしら特別な関係を築き上げねばならないと思い込んでいるんだとしら、その人はとても可哀想だ。

「何らかの才能が備わっていなくても、美しく生まれついておらずとも、社会という構造物の上層でときめく才覚がなくても、自分はかけるところのない人格なのだし、森羅万象とも他者とも創造的な生ける交わりを実現する上でなんの支障もないと自得すること」

渡辺さんは、それこそ分を知るということだと言う。

いかに慎ましい存在であろうと、自分が生きることの根拠に確信があれば、自分をひけらかす必要はない。日本人の自己抑制はそこから生じていた。

・・・私が気に入らないのは、もっと自分を大切にして欲しいと思うからか。だったら今年からは、オリンピックに出てくるような才能なんかなくて、美しく生まれついていなくて、ときめく才覚を持っていなくて、自分の“影”を人に見られないように気を遣っている“最近の若い奴”をできるだけ応援してやればいいのか。

いろいろ考えさせられる、凄い一冊だった。




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テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本








































































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