輪廻転生『逆説の世界史3』 井沢元彦
炎鵬は阿炎の悪くしている膝を取った。そしたら、阿炎が飛んだ。
インドには歴史がない。
そんな話が出てくる。インド古代史においては、編年体で書かれた記録がないんだそうだ。編年体の記録というのは、歴史を過去から現在、そして未来へと続く線のように捉えるからこそ成立するもの。私も歴史という学問に携わって生きてきたが、確かにその感覚を持って歴史に関わった。そういう点からすると、四大文明に数えられるインダス文明はあまりにも捉えどころがない。
どうやら時間を過去から未来に流れる直線的な流れではなく、円を描くように何度も何度も繰り返されるものとして捉えていたのではないかという。輪廻転生のサイクルこそが、まさにそれだと言う。
アーリア人が侵入してドラヴィダ人を征服してから、歴史は徐々に前に進むようになったと言うんだけど、だと知れば輪廻転生はこそがインダス文明以来の、変わらない現地のものの考え方と言うことになる。
ドラヴィダ人を征服したアーリア人は、当地の輪廻転生の思想を取り入れて、それに基づくヴァルナを再構成してバラモン教と呼ばれる宗教を生み出したのか。
アーリア人の神々は、彼らの移動先でさまざまに根付いてその関連性を感じさせる。同じように雷を操るインドのインドラとギリシャのゼウス。イランにおける善い神はアフラ、インドの悪い神はアシュラ。・・・ひっくり返っている。
ペルシャでは善神アフラの長がアフラ・マズダ。片や、アシュラを管理するヴァイローチャナは日本ではビルシャナと呼ばれる華厳宗の一番の仏様。奈良の大仏は毘盧遮那仏だな。毘盧遮那仏は真言宗では大日如来。ということになると、大日如来はゾロアスター教のアフラ・マズダに相当する。
そういや、ゾロアスター教は拝火教として日本に入ってるからね。二月堂のお水取りは、まさにその行事。
神々の系譜を見ても、もとはアーリア人として同じような習俗を持っていたと思われるのに、輪廻転生の思想はインドにしか現れない。ということは、それこそインドに移動したアーリア人が受け入れた、インダス文明圏特有の文化だったのではないか。
だとすれば、その後、ペルシャに根付くゾロアスター教は、アーリア人の習俗をもとに砂漠の文明の影響の元に成立したということだろうか。ゾロアスター教は、善悪二元論をもとにして、終末思想、最後の審判、天使、悪魔など、後の一神教に受け継がれるものの考え方をさまざまに生み出している。面白いもんだな。


創造主ヤハウェに対する信仰を説くユダヤ教に始まる一神教、キリスト教もイスラム教も、ペルシャのゾロアスター教の影響を受けている。インドと同じようにアーリア人の移動の影響を受けて成立していったものだろうが、ものの考え方がまったく正反対の宗教観を持つようになる。
この違い方がはなはだしい。
“永遠の生”は多くの宗教の最終目標である。キリスト教でも、イスラム教でも・・・。最後の審判でイエスが降臨し、あらゆる魂が裁きを受ける。審判に合格したものだけが神の国に入り、“永遠の生”を与えられることになる。
ところがインドにおいては、“永遠の生”はものごとの大前提。それは輪廻転生と呼ばれ、輪廻転生が絶対の事実である以上、人間は永遠の“本当の死”を迎えることは出来ない。一神教の信徒が最終目標であるものが、インドにおいては逃れることが出来ない大前提なのだ。
多くの宗教が目標とする“永遠の生”は、インド思想においてはすでに達成されたものであるばかりではない。それは、克服しなければならないもの、そう考えられている。
ゴータマ・シッダールダ、仏陀は、“本当の死”を迎えることの出来ない“永遠の生”は、《苦しみ》であると考えていた。生老病死の四苦に加えて、もう四つの苦しみが加わって四苦八苦。愛するものと分かれる苦しみが愛別離苦。怨み憎んでいる者に会う苦しみが怨憎会苦。求める物が得られない苦しみが求不得苦。身体と気持ちが思うままにならない苦しみが五蘊盛苦。
生きることは苦しみばっかりで、“永遠の生”は永遠の苦しみでしかない。
バラモン教においては、自分つまり“我”を宇宙の原理である“梵”と一致させる境地に至ることによって、その苦しみを克服できると考えた。
バラモン教の世界に生まれた仏陀は、その教義に疑問を抱き、“我”に対して“無我”、すべて空と悟ることこそ本当の解脱だと考えた。“梵”と一体化するよりも、そういったものは実在せず、永遠の不滅も存在しないなら、それに執着することは愚かと悟ること。その境地こそが本当の解脱であり、輪廻転生で巡る“永遠の苦”からの解脱としたわけだ。
そう考えると、やはりインドは深い。
インドには歴史がない。
そんな話が出てくる。インド古代史においては、編年体で書かれた記録がないんだそうだ。編年体の記録というのは、歴史を過去から現在、そして未来へと続く線のように捉えるからこそ成立するもの。私も歴史という学問に携わって生きてきたが、確かにその感覚を持って歴史に関わった。そういう点からすると、四大文明に数えられるインダス文明はあまりにも捉えどころがない。
どうやら時間を過去から未来に流れる直線的な流れではなく、円を描くように何度も何度も繰り返されるものとして捉えていたのではないかという。輪廻転生のサイクルこそが、まさにそれだと言う。
アーリア人が侵入してドラヴィダ人を征服してから、歴史は徐々に前に進むようになったと言うんだけど、だと知れば輪廻転生はこそがインダス文明以来の、変わらない現地のものの考え方と言うことになる。
ドラヴィダ人を征服したアーリア人は、当地の輪廻転生の思想を取り入れて、それに基づくヴァルナを再構成してバラモン教と呼ばれる宗教を生み出したのか。
アーリア人の神々は、彼らの移動先でさまざまに根付いてその関連性を感じさせる。同じように雷を操るインドのインドラとギリシャのゼウス。イランにおける善い神はアフラ、インドの悪い神はアシュラ。・・・ひっくり返っている。
ペルシャでは善神アフラの長がアフラ・マズダ。片や、アシュラを管理するヴァイローチャナは日本ではビルシャナと呼ばれる華厳宗の一番の仏様。奈良の大仏は毘盧遮那仏だな。毘盧遮那仏は真言宗では大日如来。ということになると、大日如来はゾロアスター教のアフラ・マズダに相当する。
そういや、ゾロアスター教は拝火教として日本に入ってるからね。二月堂のお水取りは、まさにその行事。
神々の系譜を見ても、もとはアーリア人として同じような習俗を持っていたと思われるのに、輪廻転生の思想はインドにしか現れない。ということは、それこそインドに移動したアーリア人が受け入れた、インダス文明圏特有の文化だったのではないか。
だとすれば、その後、ペルシャに根付くゾロアスター教は、アーリア人の習俗をもとに砂漠の文明の影響の元に成立したということだろうか。ゾロアスター教は、善悪二元論をもとにして、終末思想、最後の審判、天使、悪魔など、後の一神教に受け継がれるものの考え方をさまざまに生み出している。面白いもんだな。
『逆説の世界史3』 井沢元彦 小学館 ¥ 1,870 日本とインドには一神教に負けない「強い多神教」がある。その強さの秘密とは? |
創造主ヤハウェに対する信仰を説くユダヤ教に始まる一神教、キリスト教もイスラム教も、ペルシャのゾロアスター教の影響を受けている。インドと同じようにアーリア人の移動の影響を受けて成立していったものだろうが、ものの考え方がまったく正反対の宗教観を持つようになる。
この違い方がはなはだしい。
“永遠の生”は多くの宗教の最終目標である。キリスト教でも、イスラム教でも・・・。最後の審判でイエスが降臨し、あらゆる魂が裁きを受ける。審判に合格したものだけが神の国に入り、“永遠の生”を与えられることになる。
ところがインドにおいては、“永遠の生”はものごとの大前提。それは輪廻転生と呼ばれ、輪廻転生が絶対の事実である以上、人間は永遠の“本当の死”を迎えることは出来ない。一神教の信徒が最終目標であるものが、インドにおいては逃れることが出来ない大前提なのだ。
多くの宗教が目標とする“永遠の生”は、インド思想においてはすでに達成されたものであるばかりではない。それは、克服しなければならないもの、そう考えられている。
ゴータマ・シッダールダ、仏陀は、“本当の死”を迎えることの出来ない“永遠の生”は、《苦しみ》であると考えていた。生老病死の四苦に加えて、もう四つの苦しみが加わって四苦八苦。愛するものと分かれる苦しみが愛別離苦。怨み憎んでいる者に会う苦しみが怨憎会苦。求める物が得られない苦しみが求不得苦。身体と気持ちが思うままにならない苦しみが五蘊盛苦。
生きることは苦しみばっかりで、“永遠の生”は永遠の苦しみでしかない。
バラモン教においては、自分つまり“我”を宇宙の原理である“梵”と一致させる境地に至ることによって、その苦しみを克服できると考えた。
バラモン教の世界に生まれた仏陀は、その教義に疑問を抱き、“我”に対して“無我”、すべて空と悟ることこそ本当の解脱だと考えた。“梵”と一体化するよりも、そういったものは実在せず、永遠の不滅も存在しないなら、それに執着することは愚かと悟ること。その境地こそが本当の解脱であり、輪廻転生で巡る“永遠の苦”からの解脱としたわけだ。
そう考えると、やはりインドは深い。

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