『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』 野路秩嘉
埼玉県東松山市では、雪、積もらなかった。
全然だよ。全然積もらなかった。よかったー!実は、夕べ、酒、全部飲んじゃったんだ。翌日の分がない。雪が積もっている中、どうやって酒屋まで行こうか、夢にまで見てしまった。たった1kmであろうが、タイヤチェーンをつけてクルマで行くか。それとも雪が積もっている中、傘さして、歩いて行くか。
そう言えば、息子の車はインプレッサっていうスバルのクルマだった。
滋賀県の会社に就職してから買った車で、家にいる頃は、必要なら私の車に乗っていた。よくぶつけてくれて、私の車は傷だらけだ。左側、右側、前、後ろと、まんべんなく平等に傷がつけてある。いずれも相手のある話ではないので、それだけは良かった。
その息子の結婚式の話で、先日大阪に行った。式場との打ち合わせを済ませて、息子とその嫁の暮らす滋賀県近江八幡まで、そのインプレッサで帰った。息子が運転するインプレッサに乗るのははじめてだった。すでに夜も遅くなっていて、雨も降っている中だったが、安定感のある運転だった。息子の運転に安心して乗っていられるというのは、うれしいもんだと思った。
この本だけど、『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』という題名が、すでに語っている。中島飛行機に始まる話だ。
中島飛行機の本拠は、創業者中島知久平の地元群馬県太田市にあったが、埼玉県内にも大宮に中島飛行機の工場があった。飛行機のエンジンを作っていたようだ。吉見町には“吉見の百穴”という古代の遺跡がある。山の岩盤をくりぬいた横穴墓群である。戦争中、この横穴墓群の底部に直径3mほどの新たな穴が3本掘られた。大宮工場飛行機エンジン製造部門をここに移すためである。本格的な稼働が始まる前に戦争は終わったが、新たな穴が掘られたことで、もとからの横穴がいくつかなくなったそうだ。
大宮工場への徹底した空襲が計画されたが、当日の天候とレーダーの不具合で見送られたそうだ。埼玉では熊谷が空襲で大きな被害を出した。熊谷は中島飛行機のネットワークにまたがる重要拠点、つまりは下請けだな。そうアメリカから位置づけされていたわけだ。で、結構徹底してにやられた。
そして日本は追い詰められて、各都市は焼き払われて、原爆を二発も落とされて、戦争に負けた。ポツダム宣言なんて体裁ばかりで、それを書いた方には守る気なんか最初からなかった。
アメリカは日本の政治体制にまで手を突っ込んで、根底からそれを変えさせるという暴挙まで犯した。破壊された日本の経済を再建しようなんて頭は全くなくて、必要なのはかつての力を取り戻すことが出来ないようにすることだった。
アメリカは開戦当初、日本の航空技術の高さに恐怖した。アメリカを戦慄させたのは三菱の零戦であり、中島飛行機の隼だった。中島飛行機は零戦の製造にも携わっていた。
アメリカは航空禁止を日本に通達し、中島飛行機も財閥解体で細分化された。各工場は高い技術力を持ちながら、戦後はそれぞれが出来る範囲の、日常生活に必要なものを作るところから始まったそうだ。
農機具、鉄道車両、自転車、リヤカー、ミシン、タイプライター、計算機、乳母車、バスの車体、木造船。


荻窪工場は、中島飛行機の中でも俊英がそろってたんだそうだ。後に各工場は合同して富士重工になるんだけど、プライドの高い荻窪工場は加わらなかったんだそうだ。彼らは独立し、ブリジストンが中心になって設立したプリンス自動車に合流した。そして荻窪工場の技術者たちが中心になって、名車スカイラインを生み出したんだそうだ。プリンス自動車は、その後日産と合併して、日産の技術力を支えたんだそうだ。
もちろん、富士重工も負けてない。私は1960年生まれだけど、1958年に販売の始まったスバル360が走る姿は強く印象に残ってる。子どもの頃に走っていたクルマを思い出そうとすると、スバルしか出てこないくらいだ。戦後日本の自動車産業ってのは、戦前の航空産業が合流することで、より層の厚いものになっていったんだな。
さて、著者はゲルニカ爆撃と重慶空爆を同一視する。《航空機は空中戦、工業施設への空爆だけでなく、都市への空襲にも使われるようになった。戦争において銃後という場所がなくなったわけだ。そして、日本が重慶を爆撃したことだけがきっかけとはいわないが、その後、アメリカはその事実を利用して、東京、名古屋などに空襲を繰り返し、広島、長崎に原爆を投下する。原爆の使用も航空機がなければ出来ないことだった。つまり、第二次大戦とは都市への空襲が戦争の勝敗を決めた戦いだったのである》と書いている。
無邪気だな。ルーズベルトやスターリン、チャーチルに蒋介石、おまけに毛沢東も、あの世で大喜びしていることだろう。・・・ルメイもね。
南京もそうだけど、“中国”は便衣兵が多くて、日本は悩まされた。それが“中国”における戦争の文化なんだな。重慶においては蒋介石軍そのものが、便衣兵化していた。民間人を巻き込むのは日本軍の本意ではない。
アメリカの空襲は、ルメイがなんと言おうが、女子どもを殺すのが本意だ。どうしてそれを平然と一緒に出来るんだろう。
「勝てない戦争だった」と後からほざく人はたくさんいたようだが、それは今はおくとして、なぜ戦争に踏み切ったかだ。戦争って言うのは双方がその気にならないと起きないものではない。どちらかがなんとしても戦争に持ち込もうと思えば、それは始まる。そしてなんとしても日本を戦争に巻き込もうと思ってる奴が、アメリカの大統領をやっていた。
自分の国にきびしい見方をするのは結構だけど、時代の全体像を見失っては人を傷つける。
戦後の富士重工の歴史が面白かっただけに、著者の時代の捉え方が残念だった。
全然だよ。全然積もらなかった。よかったー!実は、夕べ、酒、全部飲んじゃったんだ。翌日の分がない。雪が積もっている中、どうやって酒屋まで行こうか、夢にまで見てしまった。たった1kmであろうが、タイヤチェーンをつけてクルマで行くか。それとも雪が積もっている中、傘さして、歩いて行くか。
そう言えば、息子の車はインプレッサっていうスバルのクルマだった。
滋賀県の会社に就職してから買った車で、家にいる頃は、必要なら私の車に乗っていた。よくぶつけてくれて、私の車は傷だらけだ。左側、右側、前、後ろと、まんべんなく平等に傷がつけてある。いずれも相手のある話ではないので、それだけは良かった。
その息子の結婚式の話で、先日大阪に行った。式場との打ち合わせを済ませて、息子とその嫁の暮らす滋賀県近江八幡まで、そのインプレッサで帰った。息子が運転するインプレッサに乗るのははじめてだった。すでに夜も遅くなっていて、雨も降っている中だったが、安定感のある運転だった。息子の運転に安心して乗っていられるというのは、うれしいもんだと思った。
この本だけど、『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』という題名が、すでに語っている。中島飛行機に始まる話だ。
中島飛行機の本拠は、創業者中島知久平の地元群馬県太田市にあったが、埼玉県内にも大宮に中島飛行機の工場があった。飛行機のエンジンを作っていたようだ。吉見町には“吉見の百穴”という古代の遺跡がある。山の岩盤をくりぬいた横穴墓群である。戦争中、この横穴墓群の底部に直径3mほどの新たな穴が3本掘られた。大宮工場飛行機エンジン製造部門をここに移すためである。本格的な稼働が始まる前に戦争は終わったが、新たな穴が掘られたことで、もとからの横穴がいくつかなくなったそうだ。
大宮工場への徹底した空襲が計画されたが、当日の天候とレーダーの不具合で見送られたそうだ。埼玉では熊谷が空襲で大きな被害を出した。熊谷は中島飛行機のネットワークにまたがる重要拠点、つまりは下請けだな。そうアメリカから位置づけされていたわけだ。で、結構徹底してにやられた。
そして日本は追い詰められて、各都市は焼き払われて、原爆を二発も落とされて、戦争に負けた。ポツダム宣言なんて体裁ばかりで、それを書いた方には守る気なんか最初からなかった。
アメリカは日本の政治体制にまで手を突っ込んで、根底からそれを変えさせるという暴挙まで犯した。破壊された日本の経済を再建しようなんて頭は全くなくて、必要なのはかつての力を取り戻すことが出来ないようにすることだった。
アメリカは開戦当初、日本の航空技術の高さに恐怖した。アメリカを戦慄させたのは三菱の零戦であり、中島飛行機の隼だった。中島飛行機は零戦の製造にも携わっていた。
アメリカは航空禁止を日本に通達し、中島飛行機も財閥解体で細分化された。各工場は高い技術力を持ちながら、戦後はそれぞれが出来る範囲の、日常生活に必要なものを作るところから始まったそうだ。
農機具、鉄道車両、自転車、リヤカー、ミシン、タイプライター、計算機、乳母車、バスの車体、木造船。
『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』 野路秩嘉 プレジデント社 ¥ 1,870 原点は中島飛行機にあった。「空飛ぶクルマ」にいちばん近い自動車メーカー |
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荻窪工場は、中島飛行機の中でも俊英がそろってたんだそうだ。後に各工場は合同して富士重工になるんだけど、プライドの高い荻窪工場は加わらなかったんだそうだ。彼らは独立し、ブリジストンが中心になって設立したプリンス自動車に合流した。そして荻窪工場の技術者たちが中心になって、名車スカイラインを生み出したんだそうだ。プリンス自動車は、その後日産と合併して、日産の技術力を支えたんだそうだ。
もちろん、富士重工も負けてない。私は1960年生まれだけど、1958年に販売の始まったスバル360が走る姿は強く印象に残ってる。子どもの頃に走っていたクルマを思い出そうとすると、スバルしか出てこないくらいだ。戦後日本の自動車産業ってのは、戦前の航空産業が合流することで、より層の厚いものになっていったんだな。
さて、著者はゲルニカ爆撃と重慶空爆を同一視する。《航空機は空中戦、工業施設への空爆だけでなく、都市への空襲にも使われるようになった。戦争において銃後という場所がなくなったわけだ。そして、日本が重慶を爆撃したことだけがきっかけとはいわないが、その後、アメリカはその事実を利用して、東京、名古屋などに空襲を繰り返し、広島、長崎に原爆を投下する。原爆の使用も航空機がなければ出来ないことだった。つまり、第二次大戦とは都市への空襲が戦争の勝敗を決めた戦いだったのである》と書いている。
無邪気だな。ルーズベルトやスターリン、チャーチルに蒋介石、おまけに毛沢東も、あの世で大喜びしていることだろう。・・・ルメイもね。
南京もそうだけど、“中国”は便衣兵が多くて、日本は悩まされた。それが“中国”における戦争の文化なんだな。重慶においては蒋介石軍そのものが、便衣兵化していた。民間人を巻き込むのは日本軍の本意ではない。
アメリカの空襲は、ルメイがなんと言おうが、女子どもを殺すのが本意だ。どうしてそれを平然と一緒に出来るんだろう。
「勝てない戦争だった」と後からほざく人はたくさんいたようだが、それは今はおくとして、なぜ戦争に踏み切ったかだ。戦争って言うのは双方がその気にならないと起きないものではない。どちらかがなんとしても戦争に持ち込もうと思えば、それは始まる。そしてなんとしても日本を戦争に巻き込もうと思ってる奴が、アメリカの大統領をやっていた。
自分の国にきびしい見方をするのは結構だけど、時代の全体像を見失っては人を傷つける。
戦後の富士重工の歴史が面白かっただけに、著者の時代の捉え方が残念だった。

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