自分らしく『大放言』 百田尚樹
そう言えば、この間読んだ『未踏の野を過ぎて』の中で渡辺京二さんも書いていた。“自分らしく”とか“自分らしさ”という言葉が、どれだけ日本の若者を苦しめていることかと。 言ってやりたいね。「そんなことわざわざ考えなくなって、お前はお前の顔で、お前の声だよ」って。 |
他の者とは違う個性を求められ、「自分らしさは何?あなたらしさはどこにあるの?」なんて問われた日には、目の前でパンツを脱いで、嬌声を上げて走り出すしかなくなってしまう。
だけど、今の世の中は、腹になにがしかの企みを隠して、若い人たちに“自分らしさ”を問うてくる。
だから、百田尚樹さんの言うように、“自分を探すバカ”が出てきてしまう。自分の顔っていうのは、鏡をのぞきでもしないと自分では見えない。だから近くにいる人の方が、よくその顔を見ている。
顔だけじゃない。他人の自分に対する評価を総合すれば、それはまず、その人間の等身大を表わしている。その評価が気に入らなくて、「自分を誤解している」と感じるなら、それは自分の方が勘違いしている可能性が高い。あるいは、「まだ自分の本当の姿を見せていないので、人はそれを知らないのだ」と感じるなら、「本当の姿を見せていないあなた」こそ、まさに本当のあなた。
そんなあなたが、「自分探しの旅に出る」と言ったら、私なら止める。止めて、探すまでもなく、あなたの“自分”はちゃんと私の目の前にいることを教えてあげる。“あなた”がどんな人間であるかを教えてあげる。あなたはどこにも自分を落としてきてしまったりしていない。“中国”に行っても、インドに行っても、パプアニューギニアに行っても、そこに落ちている自分を見つけられるはずがない。
中田英寿が「“新たな自分”探しの旅」に出たのは、サッカー選手として生活してきたこれまでとは違う、新しいお金の使い方している自分を模索しに行ったのだ。“お金”と言ってしまうと生々しいから、ちょっと言葉を削ってみたに過ぎない。
若者たちの“自分探し”は中田英寿とは違う。貯金が底を突いたら帰ってきて、“自分探し”に出かける以前よりも、おそらく条件の悪い仕事を探すことになる。
『大放言』 百田尚樹 新潮新書 ¥ 836 思考停止の世間に一石を投じる論考集。今こそ我らに「放言の自由」を! |
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若い人たちを迷わす言葉は他にもある。
「子どもたちには無限の可能性がある」
これほど無責任な言葉も珍しい。「できる」とは言っていないからだ。「できる・・・かもしれない」と言っているのだ。だから、どうしろとは言わない。言ってしまっては、責任を負わなければならない。言わないが、言外に語っているのだ。やらないのは、あるいは、やらせないのは、「意気地がないからだ」と。
「やれば出来ると思っているバカ」も、この本の中で取り上げている。
これもまずい。テレビでもちょくちょく見る有名漫才師のお兄さんに、勤務していた高校に講演に来てもらったことがあった。「君たちはやれば出来る」とさかんに言っていた。「ああ、言っちゃった」と思って聞いていたが、《みんなやれば出来る子や》って、わざわざ色紙に書いて置いて行った。
「やっても出来ないかもしれないが、やらなければ出来るはずがない」が本来で、せいぜい「やれば出来る・・・かもしれないから、やってみようか」ってところかな。
「あきらめなければ夢は叶う」
これを言う人は、罪深い。あきらめないことは、夢のかなえるための必要条件であって、それだけで夢が叶うわけではない。論理的に間違っている。こんな言葉を真に受けたら、ある女性と結ばれる夢を抱く男性は、確実にストーカーになる。
「自分に向いた仕事は他にあると思っているバカ」にも百田さんは手厳しい。
たしかに世の中には、好きなことをやって、それが仕事になったひともいる。しかし、それを仕事にした以上、そこには人知れないつらいこともあるに違いない。まあそれでも、好きなことを仕事に出来たと言うことは幸せなことだ。
ところがそれらの成功者の中に、ときどき、愚かにも、「好きなことを見つけて、それを仕事にすべきだ」と若い人をたぶらかす人がいる。
それは例外的なことで、珍しく幸せなことだ。通常、好きなことをするために、人は金を払う。人が嫌がるつらい仕事を引き受けるから、金を得ることが出来るのだ。そしてそれは、好きなことを仕事にしている人の仕事以上に、世の中を支える尊いものなのだ。
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