『道鏡』 三田誠広
道鏡は、看病禅師として病に伏した孝謙上皇の看病に当たり、それをきっかけに上皇とただならぬ関係となり、朝廷において大きな影響力を持つほどに出世した。重祚して称徳天皇となった女帝は、道鏡に行為を譲ろうとするが、和気清麻呂が宇佐八幡の信託を受けて、それは阻まれた。
道鏡は 座ると膝が 三つでき
道鏡に 根まで入れろと 詔
道鏡に 崩御崩御と 称徳言い
江戸時代には、そんな川柳が楽しまれるほどに、野心旺盛な道鏡が称徳天皇と男と女の関係になって出世したってことが常識になっていた。道鏡の巨根に称徳がメロメロにされちゃったなんて、ずいぶん言われちゃってる。
こういった説は、『日本霊異記』や『古事談』といった説話集で、面白おかしく取り上げられるようになったもののようだ。いずれも平安時代に入ってからのもので、信頼できる一次資料にあるものではないという。
さらに、鎌倉時代に成立した『水鏡』の異本には、称徳天皇は、道鏡だけでは飽き足らず、もろもろの法師のものを受け入れてセックスに耽ったため、女性器の中が極楽浄土になったとか。
さらには、道鏡の巨根になれて、さらなる刺激を欲した称徳天皇が、山芋をペニス型に削って楽しんでいたところ、それが膣内で折れて、取り出せなくなって、そのまま亡くなったとか。
ここまでひどい話になると、多くの人が疑問を抱く。あまりにも茶化しすぎだ。しかも下ネタで茶化しているので、言い逃れできない過去の人物である道鏡と称徳にしてみれば、風評被害も甚だしい。二人が男女の関係にあったなど、一次資料には何も見られない。
面白おかしい話に茶化しているが、そのもとである、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとしたというのは、ある種の道理にかなっていたのではないか。道理にかなった話であっ誰がために、それが排除されたとき、その排除にこそ、後付けで理由をつけなければならなくなったのではないか。


二人が男と女の関係でなかったとしたら、この時代のなり行きは説明できないのか。
たしかに、二人がそういう関係にあったからこそ、道鏡の出世があり、皇位を譲るという“突拍子もない話”が出てくるとするのは、分かりやすい説明ではある。しかし、安易だ。道鏡を政策に関与させ、さらには皇位も譲るという状況は、称徳天皇から道鏡に対する尊敬と信頼があれば、不可能ではない。二人は精神的に結びついていたが、男女の関係ではなかったとしても、この成り行きは十分説明できる。
説明はできるが、十分ではない。それは、道鏡でない者に皇位を譲ると言うことが、一体どういう意味を持つのかを考える必要がある。
ことの起こりは、藤原不比等と言っていいだろう。天武朝には藤原氏の出る幕はなかった。しかし、持統、元明、元正という三人の女帝の時代は男系は天武朝であっても、女系は天智朝になっている。天智系と藤原氏というタッグで天武朝の田の皇子たちに皇位を渡すことを阻止するのが、持統、元明、元正の成すべきことだったのだろう。
藤原不比等にすれば、天武朝の皇親政治を崩し、自らが天皇家の外戚となることで、政治の実権を握っていく。それは短期間に、着実に進められる。女系天智系の文武に不比等の娘宮子を妻合わせ、生まれたのが女系藤原系の聖武天皇だ。さらに、聖武天皇に、かさねて不比等の娘光明子を妻合わせ、生まれたのが孝謙、重祚して称徳天皇となる。
聖武と孝謙は、藤原氏を外戚とする天皇である。天皇家よりも藤原氏の一族であることに甘んじることができれば、楽に生きることができただろう。
鍵を握ると思われる女性がいる。県犬飼橘三千代である。早くから命婦として宮中に仕え、最初、美努王に嫁して葛城王をはじめ、佐為王、牟漏女王を産む。その後、美千代は美努王と分かれて藤原不比等の後妻となり、聖武の皇后となる光明子を産んでいる。
当時は、多くの古代豪族が、藤原氏によって没落させられていく中で、長屋王、橘諸兄と、皇族及び皇族出身の者らが藤原氏による権力掌握に抵抗を繰り返していた。
そのどちらにも関係している女性である。しかし、父のもとから離れ藤原不比等に身を寄せた母を、橘諸兄は容易に受け入れるであろうか。彼は、もとは葛城王と名乗った。臣籍降下するに及び、母方の橘姓を継いでいる。母が父のもとを去り、藤原不比等の後妻に入ったことを、やむを得ぬことと捉えていたからこそ、彼は橘姓を受け継いだのではなかったか。
“やむを得ぬ”なにがしかの思いが、三千代から光明皇后に、光明皇后から孝謙・称徳に受け継がれていたとしたらどうだろうか。藤原氏の支配下にある者に皇位を譲ることに、もはや称徳は絶望していたのだとしたら。
彼女に称徳の名を贈り名した者は、彼女の怨霊かを恐れていた。称徳は、殺されたのではないか。その後、天智系の光仁天皇が立てられ、井上内親王の子他戸親王が立太子されるが、二人が光仁天皇を呪詛したと訴えられ、幽閉されて殺される。いずれも、式家の藤原百川の影が浮かぶ。
ここまで書いて、困った。本のことを何も書いてない。・・・仕方がない。そんな時代を、著者の三田誠広さんがどう書いたか、お楽しみ下さい。
道鏡は 座ると膝が 三つでき
道鏡に 根まで入れろと 詔
道鏡に 崩御崩御と 称徳言い
江戸時代には、そんな川柳が楽しまれるほどに、野心旺盛な道鏡が称徳天皇と男と女の関係になって出世したってことが常識になっていた。道鏡の巨根に称徳がメロメロにされちゃったなんて、ずいぶん言われちゃってる。
こういった説は、『日本霊異記』や『古事談』といった説話集で、面白おかしく取り上げられるようになったもののようだ。いずれも平安時代に入ってからのもので、信頼できる一次資料にあるものではないという。
さらに、鎌倉時代に成立した『水鏡』の異本には、称徳天皇は、道鏡だけでは飽き足らず、もろもろの法師のものを受け入れてセックスに耽ったため、女性器の中が極楽浄土になったとか。
さらには、道鏡の巨根になれて、さらなる刺激を欲した称徳天皇が、山芋をペニス型に削って楽しんでいたところ、それが膣内で折れて、取り出せなくなって、そのまま亡くなったとか。
ここまでひどい話になると、多くの人が疑問を抱く。あまりにも茶化しすぎだ。しかも下ネタで茶化しているので、言い逃れできない過去の人物である道鏡と称徳にしてみれば、風評被害も甚だしい。二人が男女の関係にあったなど、一次資料には何も見られない。
面白おかしい話に茶化しているが、そのもとである、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとしたというのは、ある種の道理にかなっていたのではないか。道理にかなった話であっ誰がために、それが排除されたとき、その排除にこそ、後付けで理由をつけなければならなくなったのではないか。
『道鏡』 三田誠広 河出書房新社 ¥ 時価 2,500より 有数の知識と学識を持ち、同時に呪禁力も兼ね備えた道鏡とは? |
|
二人が男と女の関係でなかったとしたら、この時代のなり行きは説明できないのか。
たしかに、二人がそういう関係にあったからこそ、道鏡の出世があり、皇位を譲るという“突拍子もない話”が出てくるとするのは、分かりやすい説明ではある。しかし、安易だ。道鏡を政策に関与させ、さらには皇位も譲るという状況は、称徳天皇から道鏡に対する尊敬と信頼があれば、不可能ではない。二人は精神的に結びついていたが、男女の関係ではなかったとしても、この成り行きは十分説明できる。
説明はできるが、十分ではない。それは、道鏡でない者に皇位を譲ると言うことが、一体どういう意味を持つのかを考える必要がある。
ことの起こりは、藤原不比等と言っていいだろう。天武朝には藤原氏の出る幕はなかった。しかし、持統、元明、元正という三人の女帝の時代は男系は天武朝であっても、女系は天智朝になっている。天智系と藤原氏というタッグで天武朝の田の皇子たちに皇位を渡すことを阻止するのが、持統、元明、元正の成すべきことだったのだろう。
藤原不比等にすれば、天武朝の皇親政治を崩し、自らが天皇家の外戚となることで、政治の実権を握っていく。それは短期間に、着実に進められる。女系天智系の文武に不比等の娘宮子を妻合わせ、生まれたのが女系藤原系の聖武天皇だ。さらに、聖武天皇に、かさねて不比等の娘光明子を妻合わせ、生まれたのが孝謙、重祚して称徳天皇となる。
聖武と孝謙は、藤原氏を外戚とする天皇である。天皇家よりも藤原氏の一族であることに甘んじることができれば、楽に生きることができただろう。
鍵を握ると思われる女性がいる。県犬飼橘三千代である。早くから命婦として宮中に仕え、最初、美努王に嫁して葛城王をはじめ、佐為王、牟漏女王を産む。その後、美千代は美努王と分かれて藤原不比等の後妻となり、聖武の皇后となる光明子を産んでいる。
当時は、多くの古代豪族が、藤原氏によって没落させられていく中で、長屋王、橘諸兄と、皇族及び皇族出身の者らが藤原氏による権力掌握に抵抗を繰り返していた。
そのどちらにも関係している女性である。しかし、父のもとから離れ藤原不比等に身を寄せた母を、橘諸兄は容易に受け入れるであろうか。彼は、もとは葛城王と名乗った。臣籍降下するに及び、母方の橘姓を継いでいる。母が父のもとを去り、藤原不比等の後妻に入ったことを、やむを得ぬことと捉えていたからこそ、彼は橘姓を受け継いだのではなかったか。
“やむを得ぬ”なにがしかの思いが、三千代から光明皇后に、光明皇后から孝謙・称徳に受け継がれていたとしたらどうだろうか。藤原氏の支配下にある者に皇位を譲ることに、もはや称徳は絶望していたのだとしたら。
彼女に称徳の名を贈り名した者は、彼女の怨霊かを恐れていた。称徳は、殺されたのではないか。その後、天智系の光仁天皇が立てられ、井上内親王の子他戸親王が立太子されるが、二人が光仁天皇を呪詛したと訴えられ、幽閉されて殺される。いずれも、式家の藤原百川の影が浮かぶ。
ここまで書いて、困った。本のことを何も書いてない。・・・仕方がない。そんな時代を、著者の三田誠広さんがどう書いたか、お楽しみ下さい。
- 関連記事
-
- 『朝嵐』 矢野隆 (2020/07/25)
- 『熱源』 川越宗一 (2020/03/27)
- 『道鏡』 三田誠広 (2020/03/15)
- 『新釈にっぽん昔話』 乃南アサ (2020/03/12)
- 『志に死す』 人情時代小説傑作選 (2020/03/01)