『新釈にっぽん昔話』 乃南アサ
うちの子供たちは、なかなか寝てくれなかった。
特に、娘を寝かしつけるのは難しかった。夕ご飯のあともなかなか眠くならない。こっちが先に眠くなってしまう。本を読んでやっても、まだ寝ない。部屋を暗くして、お話をしてやる。部屋を暗くしてあるから、なおのこと、こっちが眠くなってしまう。話をしている途中で、ふと寝てしまうらしい。話が止まってしまったことで、それが娘に気づかれてしまう。
娘は「寝ないで.寝ないで」といいながら、私の顔をピシャピシャ叩く。頬ではない、上を向いている顔の真上から手を振り下ろす。私は鼻をつぶされて、飛び起きる。「お話し、お話し」と促されて話そうとするが、とっさに何をどこまで話したか出てこない。
適当に桃太郎の話をすると、「違う!桃太郎じゃない」と怒られる。「青鬼があばれたの」と言われて、“泣いた赤鬼”の話だったことを思い出す。再開して、頑張って終わりまで話しきる。娘は静かだ。寝たかと思って顔をのぞき込むと、目をあいたまま天井を見ている。
「寝るよ」と声をかけると、「どうして青鬼はあばれたの」と返してくる。何度話しても、そう聞いてくる。仕方がないから、何度も話した青鬼の気持ちを繰り返す。青鬼の気持ちを私から聞くことが、娘のお好みだった。他のお話をしてもそれは同じ。誰かの気持ちを聞くのが好きだった。それを聞くと、納得して、娘は寝た。
そんな娘も、今は自分の息子や娘を相手に、そんな毎夜を過ごしているのだろう。
子供を授かるのは大変なことだった。花咲かじじいも、一寸法師も、犬と猫とうろこ玉も、実は話はそこから始まっている。健康な親の元で、子が心身ともに健康に育つのは、なおのこと大変だった。三枚のお札も、笠地蔵も、実は話はそこから始まっている。
結婚して、子供を授かって、健全な家庭で健康に育って、成長した子供が結婚して所帯を持つ。そうして世代が引き継がれていく。今の時代は、それが当たり前のことと捉えられている。祖父母の世代から父母の世代へ、父母の世代から私たちの世代へ、私たちの世代から子供たちの世代へ、なんとか受け渡すことができた。当たり前のように見えて、ちっとも当たり前じゃなかった。
あとは祖父母と同じように、父母と同じように、私たちも消えていけばいい。


2011年3月11日、著者の乃南アサさんは、仙台市の郊外にいたそうです。被害の大きさや津波の惨状、原発の状況などを知ることができたのは、運良く東京まで帰り着いた翌日以降のことだったそうです。でも、その恐怖の記憶と東北を襲った惨状から脱出したことが、ご自分の中ではある種の後ろめたさとしてこびり付いてしまったそうです。
まんまと逃げ出してきた。
自分は何も喪っていない。
ああ、それを後ろめたく思う心情は、・・・分かると言うのはたやすいが、言っては全部嘘になってしまいそうなので言わない。言わないけど、居ても立っても居られない思い段だろうと想像する。居ても立ってもいられないから、乃南アサさんはこの本を書いた。
窮屈な避難所や仮設住宅で、互いに傷を抱え、疲れ果てながら、ひたすら肩を寄せ合って暮らす人たち。気力を失い、夢も希望も抱けずにいるかも知れない人たちが、ほんの少しでも「現実」から頭を切り離した時間を過ごせれば、その分だけ少しでも心を休ませることができるかも知れない。そんな思いから、書かれたのがこの本と言うことです。
しかも昔話なら、年齢性別問わず、時と場所を選ばずに読み始められる。事実、私はこの本をそうやって読んだ。時と場所を選ばずにね。本当は、どこか“大人の昔話うっふ~ん”を期待しているところもあったんだけど、逆にそれだと、それなりの時と場所が必要になってしまう。それはそれとして、他のなにかに託して、この本に求める必要はない。
この本で乃南アサさんは、昔話を新しい読み物にした。ある意味では新たなジャンルを切り開いたことにもなる。元から、面白いからこそ語り継がれた話。作家がその話をさらに展開したら、・・・そりゃ、面白くないはずがない。
たとえば、さるかに合戦は、元から奇想天外な話だった。そして、悪い猿をやっつけて死んだ蟹さんの恨みを晴らした一党は、自分たちにはそれができることを実証した。
そして次の相手は、狸の女房を手込めにし、首をつった女房を見て飛び出していった亭主も殺し、その娘を妾にしようとしているむじなどんらしい。一党は、仕事人になったらしい。
特に、娘を寝かしつけるのは難しかった。夕ご飯のあともなかなか眠くならない。こっちが先に眠くなってしまう。本を読んでやっても、まだ寝ない。部屋を暗くして、お話をしてやる。部屋を暗くしてあるから、なおのこと、こっちが眠くなってしまう。話をしている途中で、ふと寝てしまうらしい。話が止まってしまったことで、それが娘に気づかれてしまう。
娘は「寝ないで.寝ないで」といいながら、私の顔をピシャピシャ叩く。頬ではない、上を向いている顔の真上から手を振り下ろす。私は鼻をつぶされて、飛び起きる。「お話し、お話し」と促されて話そうとするが、とっさに何をどこまで話したか出てこない。
適当に桃太郎の話をすると、「違う!桃太郎じゃない」と怒られる。「青鬼があばれたの」と言われて、“泣いた赤鬼”の話だったことを思い出す。再開して、頑張って終わりまで話しきる。娘は静かだ。寝たかと思って顔をのぞき込むと、目をあいたまま天井を見ている。
「寝るよ」と声をかけると、「どうして青鬼はあばれたの」と返してくる。何度話しても、そう聞いてくる。仕方がないから、何度も話した青鬼の気持ちを繰り返す。青鬼の気持ちを私から聞くことが、娘のお好みだった。他のお話をしてもそれは同じ。誰かの気持ちを聞くのが好きだった。それを聞くと、納得して、娘は寝た。
そんな娘も、今は自分の息子や娘を相手に、そんな毎夜を過ごしているのだろう。
子供を授かるのは大変なことだった。花咲かじじいも、一寸法師も、犬と猫とうろこ玉も、実は話はそこから始まっている。健康な親の元で、子が心身ともに健康に育つのは、なおのこと大変だった。三枚のお札も、笠地蔵も、実は話はそこから始まっている。
結婚して、子供を授かって、健全な家庭で健康に育って、成長した子供が結婚して所帯を持つ。そうして世代が引き継がれていく。今の時代は、それが当たり前のことと捉えられている。祖父母の世代から父母の世代へ、父母の世代から私たちの世代へ、私たちの世代から子供たちの世代へ、なんとか受け渡すことができた。当たり前のように見えて、ちっとも当たり前じゃなかった。
あとは祖父母と同じように、父母と同じように、私たちも消えていけばいい。
『新釈にっぽん昔話』 乃南アサ 文春文庫 ¥ 902 誰もが知る昔話が、大人も楽しめるエンタテインメントに大変身 |
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2011年3月11日、著者の乃南アサさんは、仙台市の郊外にいたそうです。被害の大きさや津波の惨状、原発の状況などを知ることができたのは、運良く東京まで帰り着いた翌日以降のことだったそうです。でも、その恐怖の記憶と東北を襲った惨状から脱出したことが、ご自分の中ではある種の後ろめたさとしてこびり付いてしまったそうです。
まんまと逃げ出してきた。
自分は何も喪っていない。
ああ、それを後ろめたく思う心情は、・・・分かると言うのはたやすいが、言っては全部嘘になってしまいそうなので言わない。言わないけど、居ても立っても居られない思い段だろうと想像する。居ても立ってもいられないから、乃南アサさんはこの本を書いた。
窮屈な避難所や仮設住宅で、互いに傷を抱え、疲れ果てながら、ひたすら肩を寄せ合って暮らす人たち。気力を失い、夢も希望も抱けずにいるかも知れない人たちが、ほんの少しでも「現実」から頭を切り離した時間を過ごせれば、その分だけ少しでも心を休ませることができるかも知れない。そんな思いから、書かれたのがこの本と言うことです。
しかも昔話なら、年齢性別問わず、時と場所を選ばずに読み始められる。事実、私はこの本をそうやって読んだ。時と場所を選ばずにね。本当は、どこか“大人の昔話うっふ~ん”を期待しているところもあったんだけど、逆にそれだと、それなりの時と場所が必要になってしまう。それはそれとして、他のなにかに託して、この本に求める必要はない。
この本で乃南アサさんは、昔話を新しい読み物にした。ある意味では新たなジャンルを切り開いたことにもなる。元から、面白いからこそ語り継がれた話。作家がその話をさらに展開したら、・・・そりゃ、面白くないはずがない。
たとえば、さるかに合戦は、元から奇想天外な話だった。そして、悪い猿をやっつけて死んだ蟹さんの恨みを晴らした一党は、自分たちにはそれができることを実証した。
そして次の相手は、狸の女房を手込めにし、首をつった女房を見て飛び出していった亭主も殺し、その娘を妾にしようとしているむじなどんらしい。一党は、仕事人になったらしい。
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