『陰陽五行で分かる日本のならわし』
埼玉県東秩父村大内沢に二日連続で行ってきた。
先日のブログで紹介したけど、この大内沢の花桃がすごかったって言ってたら、連れ合いも行きたいってことになった。重ねて、20日のお彼岸の中日に、孫を預かることになって、18日に行くことになって、「なら、そのあとに大内沢に寄ってみよう」ということ。
お墓は埼玉県の鳩山町にある霊園で、30年以上前に義父と連名で建てた。今は、生きて会うことのできなかった私たちの娘と、義父母が眠っている。中日の二日前と言うことでお参りの人は多くなかったが、お互いに声を掛け合って、鶯の声に耳を傾けた。
墓参りを終えて、東秩父村に向かった。前の日以上に温かい日和で、人出も多く、駐車場はギリギリだった。平日にこれじゃ、週末は大変だろうと思わされた。
花は、日を追って、ますます見事だった。
桃は邪気を払うという。“中国”から伝わった話だろうが、孫悟空は西王母の桃を食べてすごい力を手に入れた。花にも力があるという。桃の花を杯に浮かべて飲めば、邪気を祓い、寿命を延ばすらしい。杯に浮かべずとも、これだけの桃の花に囲まれれば、ずいぶん寿命も延びたろう。それとも私をおおう邪気が多すぎて、それを払うので手一杯だったかも知れない。なにせ、天邪鬼を自認する私だ。
験を担ぐなんてのは迷信だと切り捨てるのは、とても容易なことだ。だけど、そういうものを全部切り捨ててしまうと、分からなくなってしまうことがある。人がいかに世代をつなぐために、多くのものを犠牲にしてきたかということだ。迷信は人を苦しめていることが少なくないが、その多くは、かつては社会に恩恵をもたらす天与の法則だった。
迷信への憎悪をあからさまにする人を見ると、理解しつつも、私はちょっと悲しい。
日本人は言葉に敏感で、日頃から言葉に戯れ、言葉で遊ぶ。業界用語と言いながら、芸能界では言葉をひっくり返す。だけど、これは日本人の言葉遊びの特徴で、昔からやっていたらしい。
“験を担ぐ”の“験”は、考えてみればよく分からない。これ、もともと担いだのは“えんぎ(縁起)”だったようだ。それを言葉遊びの好きな業界人が、“ぎえん”とひっくり返して“げん”になったようだ。


お祝いの席で使う箸に、柳を素材としたものが使われる。真白い柳の木肌が清浄を表す。祝い箸は丸い橋で両端が細くなっている両細箸。これは一方で神様が召し上がり、もう一方で私たちがいただくという神人共食のための神聖な箸。
柳は“家内喜”と書いて、言霊の意味からも喜ばれていた。反対に割り箸の“割る”は、祝い事では嫌われ、形状が四角いのも、四が死に通じ、かつ陰陽の陰を表す数字であることからも遠ざけられた。
“割る”は、特に結婚式では嫌がられたことから、結婚式のお祝いには割り切れないと同時に陰陽の陽にあたる奇数のお金を包む習慣がある。
おせち料理は、年神さまに捧げる供物。神様の前から下げて、家族で食べる直会の食べ物。
黒豆の黒は、魔除けの役割を果たし、邪気を払ってマメに暮らせるように。
かずのこは子宝に恵まれるように、子孫繁栄を願って。
ごまめ田作りは、五万米と書いて、ごまめと読む。片口鰯で五穀豊穣を願う。
金団は黄金色の塊で財運を祈る。
蒲鉾は、紅白の蒲鉾の形が日の出に似ているから、元旦の初日の出を祝う。
昆布巻は、「よろこんぶ」と喜ぶに通じる。
「迷信だ」と吐き捨てるのは簡単だけど、そう考えて、身近な者たちとともに、いつまでも健やかに暮らしていきたいと切に願った人々の思いまで捨ててしまうのは、やっぱり間違っていると思う。
ただ、その迷信が人を悲しませることもある。時には命さえ奪ってしまう場合もある。背景にある“思い”が、いかに身近な者のためを図るものであるとしても、それは排除しなければならない。
いろいろなことを“知る”ってことは、そういう意味で大事なんだと思う。
先日のブログで紹介したけど、この大内沢の花桃がすごかったって言ってたら、連れ合いも行きたいってことになった。重ねて、20日のお彼岸の中日に、孫を預かることになって、18日に行くことになって、「なら、そのあとに大内沢に寄ってみよう」ということ。
お墓は埼玉県の鳩山町にある霊園で、30年以上前に義父と連名で建てた。今は、生きて会うことのできなかった私たちの娘と、義父母が眠っている。中日の二日前と言うことでお参りの人は多くなかったが、お互いに声を掛け合って、鶯の声に耳を傾けた。
墓参りを終えて、東秩父村に向かった。前の日以上に温かい日和で、人出も多く、駐車場はギリギリだった。平日にこれじゃ、週末は大変だろうと思わされた。
花は、日を追って、ますます見事だった。
桃は邪気を払うという。“中国”から伝わった話だろうが、孫悟空は西王母の桃を食べてすごい力を手に入れた。花にも力があるという。桃の花を杯に浮かべて飲めば、邪気を祓い、寿命を延ばすらしい。杯に浮かべずとも、これだけの桃の花に囲まれれば、ずいぶん寿命も延びたろう。それとも私をおおう邪気が多すぎて、それを払うので手一杯だったかも知れない。なにせ、天邪鬼を自認する私だ。
験を担ぐなんてのは迷信だと切り捨てるのは、とても容易なことだ。だけど、そういうものを全部切り捨ててしまうと、分からなくなってしまうことがある。人がいかに世代をつなぐために、多くのものを犠牲にしてきたかということだ。迷信は人を苦しめていることが少なくないが、その多くは、かつては社会に恩恵をもたらす天与の法則だった。
迷信への憎悪をあからさまにする人を見ると、理解しつつも、私はちょっと悲しい。
日本人は言葉に敏感で、日頃から言葉に戯れ、言葉で遊ぶ。業界用語と言いながら、芸能界では言葉をひっくり返す。だけど、これは日本人の言葉遊びの特徴で、昔からやっていたらしい。
“験を担ぐ”の“験”は、考えてみればよく分からない。これ、もともと担いだのは“えんぎ(縁起)”だったようだ。それを言葉遊びの好きな業界人が、“ぎえん”とひっくり返して“げん”になったようだ。
『陰陽五行で分かる日本のならわし』 長田なお 淡交社 ¥ 1,320 なぜ、節分の鬼は牛のような角で、虎柄のパンツをはいているの? |
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お祝いの席で使う箸に、柳を素材としたものが使われる。真白い柳の木肌が清浄を表す。祝い箸は丸い橋で両端が細くなっている両細箸。これは一方で神様が召し上がり、もう一方で私たちがいただくという神人共食のための神聖な箸。
柳は“家内喜”と書いて、言霊の意味からも喜ばれていた。反対に割り箸の“割る”は、祝い事では嫌われ、形状が四角いのも、四が死に通じ、かつ陰陽の陰を表す数字であることからも遠ざけられた。
“割る”は、特に結婚式では嫌がられたことから、結婚式のお祝いには割り切れないと同時に陰陽の陽にあたる奇数のお金を包む習慣がある。
おせち料理は、年神さまに捧げる供物。神様の前から下げて、家族で食べる直会の食べ物。
黒豆の黒は、魔除けの役割を果たし、邪気を払ってマメに暮らせるように。
かずのこは子宝に恵まれるように、子孫繁栄を願って。
ごまめ田作りは、五万米と書いて、ごまめと読む。片口鰯で五穀豊穣を願う。
金団は黄金色の塊で財運を祈る。
蒲鉾は、紅白の蒲鉾の形が日の出に似ているから、元旦の初日の出を祝う。
昆布巻は、「よろこんぶ」と喜ぶに通じる。
「迷信だ」と吐き捨てるのは簡単だけど、そう考えて、身近な者たちとともに、いつまでも健やかに暮らしていきたいと切に願った人々の思いまで捨ててしまうのは、やっぱり間違っていると思う。
ただ、その迷信が人を悲しませることもある。時には命さえ奪ってしまう場合もある。背景にある“思い”が、いかに身近な者のためを図るものであるとしても、それは排除しなければならない。
いろいろなことを“知る”ってことは、そういう意味で大事なんだと思う。
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