『謎解き 聖書物語』 長谷川修一
新型コロナウイルスに感染すると、高齢者ほど重症化しやすいそうだ。古い方からいなくなるのは順番通りではあるが、弱いものいじめのようにも感じる。
古い人たちは、昔のことを知っているというだけですばらしい。聞けば、私が入居する前の、この町のことをよく話してくれる。伝えておきたいことがある。十字路の、交差する大きな道を斜めにつなげる小さな道がある。左折車が、正面が赤信号に変わりそうだと、その斜めの道に入って、信号待ちを回避するのに使ったりする。ところが、この自治会が始まった頃は、その小さな道こそが本来の通りだったんだという。小さな道しかなかった当時は、駅に出るのも大変だったとか。
知ってることは、あとから来る者に伝えておきたいものだ。小さな自治会でも、そんな記憶はいくらでもある。人類の記憶となると、それは計り知れない。
最古の物語の一つに『アトラ・ハシース』というのがある。紀元前一八世紀に記されたもので、アッカド語が楔形文字で書かれている。「最高の賢者」という意味がある。神々による宇宙と人間の創造、人口を減らすための干ばつや飢饉、そして洪水の物語が記される。
数が増えすぎて騒々しくなった人間を減らそうとする神々、中でも最高の力を持った神エンリルは、洪水を起こして人間を滅ぼそうとした。しかし、知恵の神エアは、このことをアトラ・ハシースに教え、方舟を作らせる。アトラ・ハシースはできあがった方舟に家族と動物たちを乗せる。洪水は七日間続き、水が引いたあとに、アトラ・ハシースは生け贄を神々に捧げる。



『アトラ・ハシース』よりもさらによく知られる最古の物語に『ギルガメッシュ叙事詩』がある。ギルガメッシュはウルクという都市国家の王で、三分の二が神、三分の一が人間という英雄として描かれる。物語はギルガメッシュと親友エンキドゥの出会い、二人の冒険、そしてエンキドゥの死へと続く。
エンキドゥの死に衝撃を受けたギルガメッシュは永遠の命を探す旅に出る。その旅でギルガメッシュは、大昔に起きた大洪水を生き残り、神々のように不死の存在になったウタ・ナピシュティのところにたどり着く。
ウタ・ナピシュティは大昔に自分が体験した大洪水のことを話す。その話は、『アトラ・ハシース』で語られる洪水の話とほぼ同じ。洪水の水は七日目に引き、方舟は山に漂着する。ウタ・ナピシュティはハトを飛ばすが、ハトは戻ってきてしまう。次にツバメを、ツバメが戻ってくると、次はカラスを飛ばす。カラスは戻ってこない。ウタ・ナピシュティは神々に捧げ物をする。
ギルガメッシュは洪水の話の後で、ウタ・ナピシュティから若返りの草の話を聞き、その草を手に入れる。しかし、ギルガメッシュが水浴びをしている間に、一匹の蛇にその草を奪われてしまう。
旧約聖書のノアの方舟の話は、古くから西アジアに伝わっていた物語を基礎として、それを自分たちの物語として書き直したものと思われる。
紀元前一二世紀以降に書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』が最もよく知られると書いたが、これを標準版と読んでいる。最初に標準版が記された粘土板が発見されたのは、紀元前七世紀に西アジアの広い地域を収めていたアッシリア王アッシュール・バニパルが首都ニネヴェに建設した図書館の遺跡であるという。
アルファベットと違い数百の文字からなる楔形文字に習熟するのは大変なことで、正確に読み書きするには長い時間をかけて学習する必要があった。その習熟のために、メソポタミアの古典文学が教材として使われていたと考えられている。メギドという古代遺跡からは、紀元前二〇〇〇年記の『ギルガメッシュ叙事詩』の刻まれた粘土板が発見されている。
メソポタミアという言葉には、二つの川の間の土地という意味がある。ティグリス川とユーフラテス川である。ともに今日のトルコ東方の山岳地帯に源流がある。この山岳地帯は三〇〇〇メートルを越え、冬には雪が積もる。それが春になると解け、川は水量を増し、時には洪水となってメソポタミア地方を襲った。当時の都市国家は、両河川の流域にあり、これらの洪水の影響を受けていたものと考えられ、同時に洪水は、上流の森林地帯の肥沃な土を運んだ。しかし、現在までのところ、メソポタミア地方全体に影響を与えるような大洪水が発生した証拠は見つかっていないそうだ。
二〇〇〇年記に書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』の中に書かれた洪水伝説も、遠い昔の大災害の記憶として語られている。研究者の中には、これを氷河時代の終わりの海面上昇と結びつける人もいるという。
洪水は、人類を滅ぼしてもおかしくなかった。しかし、ごくわずかに神に認められた者がいて、その者だけが神の恩恵にあずかって助かった。そこからまた、新しい人類の歩が始まった。だから語られるのは、神に認められたという自分たちの正当性であって、災害への注意喚起とは違う。
基本的に神話は、そのようにして語られる。
古い人たちは、昔のことを知っているというだけですばらしい。聞けば、私が入居する前の、この町のことをよく話してくれる。伝えておきたいことがある。十字路の、交差する大きな道を斜めにつなげる小さな道がある。左折車が、正面が赤信号に変わりそうだと、その斜めの道に入って、信号待ちを回避するのに使ったりする。ところが、この自治会が始まった頃は、その小さな道こそが本来の通りだったんだという。小さな道しかなかった当時は、駅に出るのも大変だったとか。
知ってることは、あとから来る者に伝えておきたいものだ。小さな自治会でも、そんな記憶はいくらでもある。人類の記憶となると、それは計り知れない。
最古の物語の一つに『アトラ・ハシース』というのがある。紀元前一八世紀に記されたもので、アッカド語が楔形文字で書かれている。「最高の賢者」という意味がある。神々による宇宙と人間の創造、人口を減らすための干ばつや飢饉、そして洪水の物語が記される。
数が増えすぎて騒々しくなった人間を減らそうとする神々、中でも最高の力を持った神エンリルは、洪水を起こして人間を滅ぼそうとした。しかし、知恵の神エアは、このことをアトラ・ハシースに教え、方舟を作らせる。アトラ・ハシースはできあがった方舟に家族と動物たちを乗せる。洪水は七日間続き、水が引いたあとに、アトラ・ハシースは生け贄を神々に捧げる。
『謎解き 聖書物語』 長谷川修一 ちくまプリマー新書 ¥ 929 旧約聖書につづられた物語は史実なのか、それともフィクションなのか? |
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『アトラ・ハシース』よりもさらによく知られる最古の物語に『ギルガメッシュ叙事詩』がある。ギルガメッシュはウルクという都市国家の王で、三分の二が神、三分の一が人間という英雄として描かれる。物語はギルガメッシュと親友エンキドゥの出会い、二人の冒険、そしてエンキドゥの死へと続く。
エンキドゥの死に衝撃を受けたギルガメッシュは永遠の命を探す旅に出る。その旅でギルガメッシュは、大昔に起きた大洪水を生き残り、神々のように不死の存在になったウタ・ナピシュティのところにたどり着く。
ウタ・ナピシュティは大昔に自分が体験した大洪水のことを話す。その話は、『アトラ・ハシース』で語られる洪水の話とほぼ同じ。洪水の水は七日目に引き、方舟は山に漂着する。ウタ・ナピシュティはハトを飛ばすが、ハトは戻ってきてしまう。次にツバメを、ツバメが戻ってくると、次はカラスを飛ばす。カラスは戻ってこない。ウタ・ナピシュティは神々に捧げ物をする。
ギルガメッシュは洪水の話の後で、ウタ・ナピシュティから若返りの草の話を聞き、その草を手に入れる。しかし、ギルガメッシュが水浴びをしている間に、一匹の蛇にその草を奪われてしまう。
旧約聖書のノアの方舟の話は、古くから西アジアに伝わっていた物語を基礎として、それを自分たちの物語として書き直したものと思われる。
紀元前一二世紀以降に書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』が最もよく知られると書いたが、これを標準版と読んでいる。最初に標準版が記された粘土板が発見されたのは、紀元前七世紀に西アジアの広い地域を収めていたアッシリア王アッシュール・バニパルが首都ニネヴェに建設した図書館の遺跡であるという。
アルファベットと違い数百の文字からなる楔形文字に習熟するのは大変なことで、正確に読み書きするには長い時間をかけて学習する必要があった。その習熟のために、メソポタミアの古典文学が教材として使われていたと考えられている。メギドという古代遺跡からは、紀元前二〇〇〇年記の『ギルガメッシュ叙事詩』の刻まれた粘土板が発見されている。
メソポタミアという言葉には、二つの川の間の土地という意味がある。ティグリス川とユーフラテス川である。ともに今日のトルコ東方の山岳地帯に源流がある。この山岳地帯は三〇〇〇メートルを越え、冬には雪が積もる。それが春になると解け、川は水量を増し、時には洪水となってメソポタミア地方を襲った。当時の都市国家は、両河川の流域にあり、これらの洪水の影響を受けていたものと考えられ、同時に洪水は、上流の森林地帯の肥沃な土を運んだ。しかし、現在までのところ、メソポタミア地方全体に影響を与えるような大洪水が発生した証拠は見つかっていないそうだ。
二〇〇〇年記に書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』の中に書かれた洪水伝説も、遠い昔の大災害の記憶として語られている。研究者の中には、これを氷河時代の終わりの海面上昇と結びつける人もいるという。
洪水は、人類を滅ぼしてもおかしくなかった。しかし、ごくわずかに神に認められた者がいて、その者だけが神の恩恵にあずかって助かった。そこからまた、新しい人類の歩が始まった。だから語られるのは、神に認められたという自分たちの正当性であって、災害への注意喚起とは違う。
基本的に神話は、そのようにして語られる。
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