聖火リレー『ナチスの発明』 武田知弘
東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まった。
1年程度と言うことなんだけど、1年にこだわる必要があったろうか。1年で武漢ウイルスの流行が沈静化する補償はどこにもないのに。ただ、“補償”などと言い出せば、実はそんなものはどこにもない。できるだけ後ろにずらした方が、沈静化の確率が高まるって言う程度だな。
いずれにせよ、沈静化しさえすれば、100%のオリンピックを行なうことができる。日本を、日本人を悲しませることが無上の喜びという人は、日本も含めて、極東アジアに少なくない。そういう人にすれば、100%の開催にはイチャモンをつけたいところだろうけど、東京開催が決まってからの7年間、一生懸命やってきた人のことを考えれば、やっぱりなんとかしてあげたいよね。
延期による選手の浮き沈みはあるだろう。だけど、それは受け入れてもらわざるを得ない。最高の選手たちだから、それこそギリギリの仕上げをする時期がずれるのは、やはり大きい。特に年齢の言った選手にとって、1年延長は、もはや選手に選ばれることも厳しくなるかも知れない。
だけど、この事態を考えれば、それであきらめる選手かどうかというところに尽きると思う。勝負事なんだから。
延期の決定が、聖火リレーの始まりとギリギリのところだったので、100%の準備をしてやきもき、そして延期決定で撤収ってケースもあったよう。でも、新たに延期時期が決まれば、聖火もって走れるんだから。ちょっと楽しみが先に伸びたと思って、今は感染症に打ち勝つことを考えよう。
それこそ、重い病気に冒された人が、聖火リレーに選ばれたという報道を見た。今、生きている証に走ろうとしていたことだろう。ぜひ、聖火同様、その日が来るまで、命の火を決して消さないで。
そうそう、その人だけじゃなく、オリンピック前に死なないようにしよう。


そう言えば、この聖火リレーっていうのは、ナチス・ドイツが始めたことだった。
1936年、ナチス政権下で開かれたベルリンオリンピックが聖火リレーの始まりで、それ以前には行なわれていなかった。ほぼ今行なわれているのと同じ聖火リレーが、ナチスによって始められた。
というのは、古代オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアでオリンピックの火を採火し、アテネのスタジアムでトーチにともされ、トーチを受け継いで、開会式のメインスタジアムまで運ぶという“聖火リレー”のあり方。これはナチスが始めたということだ。
ベルリンオリンピックの際は、ギリシャのオリンピアから、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してドイツに入るというものだった。
準備されたランナーは3000人、トーチ3000本は大鉄鋼会社のクルップ社が寄贈した。当時の聖火リレーは、、試行錯誤の連続で、事実、途中で消えてしまい、マッチでつけ直すということもあったそうだ。
そんなことがありながらトーチはベルリンに入り、メインスタジアムまで受け継がれ、最終ランナーであるベルリン在住の子どもによって聖火台まで運ばれた。彼がトーチをかざし、聖火台に炎が燃え上がると観衆の熱狂は頂点に達したそうだ。
私たちが子どもの頃は、運動会といえば、何度も何度も予行演習が行なわれた。特に、入場行進と、体操だな。入場行進なんて、嫌さ加減が顔に表れるどころか、身体全体にじんましんができるくらい何度もやった。グラウンドを回って、正面にさしかかったところで、正面に向かって、右手を斜めにピンと伸ばす。ナチス敬礼とか、ヒトラー敬礼と呼ばれるやつだ。
全然知らずに、やらされていた。中学校でもやらされた。私の担任は組合活動に熱心な人だったけど、彼も知らなかったみたいで、疑問も抱かず、生徒にそれを強制していた。
第二次大戦後のドイツやオーストリアでは、ナチス賛美の行為として、取り締まりの対象になっているそうだ。だけど、聖火リレーは生き残った。オリンピアからもたらされた聖なる炎。それは古代ギリシャ文化に、自分たちの文化の源流の一つを感じているヨーロッパ人には、特別な高揚感をもたらしたんだろう。そしてそれが聖火台に燃え上がったときの熱狂は、たとえナチス起源であっても捨て去るにはあまりにも惜しかったということだろう。
たしかにナチスはよっぽどなんだけど、よっぽどなのをいいことに、ヨーロッパは何でもかんでも全部ナチスにひっかぶせてしまった。本来は、その功罪を検証すべきだったのに。
そんないわれのある聖火リレー、もう一回、初っぱなに戻って、オリンピックを盛り上げよう。
1年程度と言うことなんだけど、1年にこだわる必要があったろうか。1年で武漢ウイルスの流行が沈静化する補償はどこにもないのに。ただ、“補償”などと言い出せば、実はそんなものはどこにもない。できるだけ後ろにずらした方が、沈静化の確率が高まるって言う程度だな。
いずれにせよ、沈静化しさえすれば、100%のオリンピックを行なうことができる。日本を、日本人を悲しませることが無上の喜びという人は、日本も含めて、極東アジアに少なくない。そういう人にすれば、100%の開催にはイチャモンをつけたいところだろうけど、東京開催が決まってからの7年間、一生懸命やってきた人のことを考えれば、やっぱりなんとかしてあげたいよね。
延期による選手の浮き沈みはあるだろう。だけど、それは受け入れてもらわざるを得ない。最高の選手たちだから、それこそギリギリの仕上げをする時期がずれるのは、やはり大きい。特に年齢の言った選手にとって、1年延長は、もはや選手に選ばれることも厳しくなるかも知れない。
だけど、この事態を考えれば、それであきらめる選手かどうかというところに尽きると思う。勝負事なんだから。
延期の決定が、聖火リレーの始まりとギリギリのところだったので、100%の準備をしてやきもき、そして延期決定で撤収ってケースもあったよう。でも、新たに延期時期が決まれば、聖火もって走れるんだから。ちょっと楽しみが先に伸びたと思って、今は感染症に打ち勝つことを考えよう。
それこそ、重い病気に冒された人が、聖火リレーに選ばれたという報道を見た。今、生きている証に走ろうとしていたことだろう。ぜひ、聖火同様、その日が来るまで、命の火を決して消さないで。
そうそう、その人だけじゃなく、オリンピック前に死なないようにしよう。
『ナチスの発明』 武田知弘 彩図社 ¥ 713 今まで語られることの少なかった、ナチスの功罪の「功」の部分に光を |
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そう言えば、この聖火リレーっていうのは、ナチス・ドイツが始めたことだった。
1936年、ナチス政権下で開かれたベルリンオリンピックが聖火リレーの始まりで、それ以前には行なわれていなかった。ほぼ今行なわれているのと同じ聖火リレーが、ナチスによって始められた。
というのは、古代オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアでオリンピックの火を採火し、アテネのスタジアムでトーチにともされ、トーチを受け継いで、開会式のメインスタジアムまで運ぶという“聖火リレー”のあり方。これはナチスが始めたということだ。
ベルリンオリンピックの際は、ギリシャのオリンピアから、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してドイツに入るというものだった。
準備されたランナーは3000人、トーチ3000本は大鉄鋼会社のクルップ社が寄贈した。当時の聖火リレーは、、試行錯誤の連続で、事実、途中で消えてしまい、マッチでつけ直すということもあったそうだ。
そんなことがありながらトーチはベルリンに入り、メインスタジアムまで受け継がれ、最終ランナーであるベルリン在住の子どもによって聖火台まで運ばれた。彼がトーチをかざし、聖火台に炎が燃え上がると観衆の熱狂は頂点に達したそうだ。
私たちが子どもの頃は、運動会といえば、何度も何度も予行演習が行なわれた。特に、入場行進と、体操だな。入場行進なんて、嫌さ加減が顔に表れるどころか、身体全体にじんましんができるくらい何度もやった。グラウンドを回って、正面にさしかかったところで、正面に向かって、右手を斜めにピンと伸ばす。ナチス敬礼とか、ヒトラー敬礼と呼ばれるやつだ。
全然知らずに、やらされていた。中学校でもやらされた。私の担任は組合活動に熱心な人だったけど、彼も知らなかったみたいで、疑問も抱かず、生徒にそれを強制していた。
第二次大戦後のドイツやオーストリアでは、ナチス賛美の行為として、取り締まりの対象になっているそうだ。だけど、聖火リレーは生き残った。オリンピアからもたらされた聖なる炎。それは古代ギリシャ文化に、自分たちの文化の源流の一つを感じているヨーロッパ人には、特別な高揚感をもたらしたんだろう。そしてそれが聖火台に燃え上がったときの熱狂は、たとえナチス起源であっても捨て去るにはあまりにも惜しかったということだろう。
たしかにナチスはよっぽどなんだけど、よっぽどなのをいいことに、ヨーロッパは何でもかんでも全部ナチスにひっかぶせてしまった。本来は、その功罪を検証すべきだったのに。
そんないわれのある聖火リレー、もう一回、初っぱなに戻って、オリンピックを盛り上げよう。
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