『逆説の日本史23 明治揺籃編』 井沢元彦
学生の時、それもか1年か2年の時だ。居酒屋で、沖縄県民に押されっぱなしになったことがある。もう、40年以上前の話だ。
沖縄がかつて琉球王国であった頃、武器すら持たない平和な国だったというのだ。当時、聞いたこともなかったバジル・ホールの航海記を持ち出され、彼が琉球を武器を持たない平和な地としてナポレオンに紹介したなどと聞かされて、大きな違和感を持ちながらなんの反論もできなかった。
彼らは、その琉球を明治政府は力で日本に編入した琉球処分は、沖縄の不幸の始まりだと言っていたのだ。
8世紀に成立した、奈良時代の日本に仏教の戒律を伝えた鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(淡海三船著)に753(天平勝宝5)年、遣唐使一行が阿児奈波(あこなは)島に漂着したと記されており、これが沖縄という地名と同じものだと考えられる。これに対して琉球というのは中国風の言い方で、古くは屋久島を指して「流求」と記されたようだ。また、台湾とも区別されずに使われていたという指摘もある。
琉球という地名が確定したのは、明をおこした太祖洪武帝が1372年に使者として楊載を派遣して中山王察度を服属させたのが始まり。この時、明はこの国を琉球と呼び、以後、琉球は国王が中国皇帝によって任命される国になった。
察度王の時は北山、南山、中山に分かれていて、それぞれに王がいた。1429年、中山王の尚巴志が三山を統一して琉球王国として中国の冊封体制に入った。
戦国時代末期、薩摩の島津義久は全九州をほぼ制覇した。しかし、大友宗麟が豊臣秀吉がに出兵を求めたため形勢は逆転し、島津家は薩摩、大隅二カ国の領主に後退した。その時の島津家は九州制覇のために多くの武士を高録で抱えた状態にあったので、財政は破綻した。石田三成から新しい国内経済運営を学び朝鮮出兵の奮戦で日向国を取り戻し一息ついた島津氏であったが、関ヶ原で西軍に加担するという戦略ミスを犯し、再び日向国を失った。
時の当主の島津家久は琉球王国領奄美王島の砂糖を狙って、家康に許可を求めて許された。それどころか、事のついでに琉球本島まで遠征し、琉球王国を占領して日本領にしてしまえと求めてきた。
琉球国王尚寧は首里城を包囲されて二日間で降伏を願い出た。かつて明は、朝鮮まで出兵して秀吉軍と戦った。尚寧王、あるいは最高顧問の立場にあった謝名親方には、その頭があったかもしれない。しかし、明は来なかった。明は文禄・慶長の役で国力を損耗し、満州族の侵入に、自らが悩まされる立場にあった。朝鮮は陸続きだが、琉球は海によって隔てられていた。かつて秀吉軍と戦った泗川の戦いで数倍の明国軍を撃破したのは、ほかならぬ島津軍であった。
家康はなにを考えていたのか。明との貿易の利益を独占しようとすれば、朝貢貿易にしろ、勘合貿易にしろ、足利義満がやったように、中華皇帝の家臣の立場をとる必要があった。つまり、明による冊封を受け入れることである。それが嫌だということになれば、日本のかわりに頭を下げて明の家臣となり朝貢もするが、実質的には日本の一部であるという“ダミー”としての琉球王朝が必要となったのである。
しかし、そのようにして手に入れた琉球王国という貴重な存在を、幕府は貿易面においては有効活用しなかった。家康が、武士の基本理念として取り入れた朱子学の弊害である。家康は、明智光秀や豊臣秀吉のように、さらには自分自身のように、主を平気で裏切る人間をこの世から根絶し、武士の世界に忠誠という道徳を確立しようとした。
たしかに朱子学にはそういった効用があった。しかし同時に、商業軽視という、それまでの日本には全くなかった効用も含まれていた。日本には古来より商売や貿易を悪いことだとは、まったく考えていなかった。平清盛、足利義満、大内氏や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、貿易を悪とする発想はなかった。
ところが、家康が朱子学を武士の基本理念として取り入れたことで、江戸時代の武士たちは商売を悪だと考えるようになってしまった。長崎を通じてのオランダとの交易も、本来、幕府に莫大な利益をもたらすはずなのに、それを長崎商人に丸投げしてしまった。この構造にメスを入れようとした田沼意次は、商業を悪と考える松平定信に引きずり降ろされた。
まさに朱子学こそが、せっかく家康が手に入れた琉球王国という打ち出の小づちを、有効活用できずに終わる原因であった。そのかわり、琉球王国は薩摩藩によって有効活用された。
1609年の薩摩藩による征服以来、琉球王国は3つの側面を持つことになる。第一に、薩摩藩を実質的管理者として幕藩体制の一環に編成されていた。第二に、清国との間に伝統的な外交・貿易関係を持ち、国王は皇帝の冊封を受け、定期的に朝貢を行っていた。第三に、独自の王国体制をもって領内を直接経営していた。


明治維新によって日本が近代国家に生まれ変わるにあたり、琉球王国もその存在の曖昧さを抱えたままではいられなかった。世界に向けて開国した日本にとって、貿易の道具としての琉球は必要ない。そこで明治政府は1871(明治4)年、廃藩置県を断行し鹿児島藩を廃止した際に琉球を鹿児島県管轄とした。その上で、翌1872(明治5)年、明治天皇は琉球国王尚泰を琉球藩王とし、侯爵として華族に叙し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告した。
1872(明治5)年、前年台湾に漂着した琉球宮古島の住民の生存者12名が送還されてきた。彼らは生き残りで、54名が台湾原住民に殺されていた。大久保利通はこれを巧妙に利用した。大久保はまず清国に抗議し、謝罪と賠償を求めた。清国がこれに応じれば、宮古島島民を日本国民と認めたことになるので、当然琉球が日本領であることを認めたことになる。ところが、清国は、台湾原住民を「中華皇帝の徳化の及ばない化外の民」であるからその行動については関知しない旨、日本側に通達してきた。大久保利通は清国の主権を侵さないなら自ら台湾原住民を討伐すると軍を差し向けた。不平士族の不満がたまっていたこともあり、そのガス抜きもかねて西郷隆盛の弟従道を司令官に義勇兵3000で台湾を攻めた。清国は主権の侵害であると抗議し、即時撤兵を要求してきた。大久保は清国と交渉して、撤兵に応じる代わりに賠償金を獲得することに成功した。つまり、清国に琉球は日本領であると認めさせた。
1878(明治11)年、大久保利通は暗殺されたが、内務卿を引き継いだ伊藤博文の命により、警官約160名と陸軍熊本鎮台から一個大隊約400名が首里城を接収し、琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通達した。これが琉球処分である。
琉球がほとんど非武装状態だったので流血の惨事は免れたが、琉球の上流階級は琉球処分に強く抵抗した。日本は、それを無理やり断行した。
伊波普猷は『沖縄歴史物語』のなかで、「琉球処分は一種の奴隷解放」と述べている。尚王家とそれを取りまく上流階級は、清国と同じ朱子学を根本道徳とした身分制秩序に支えられた国家を指向していた。士農工商が基本であり身分の壁を乗り越えようとすることは“悪”であった。足軽上がりの伊藤博文が内務卿を務める日本など野蛮国家に過ぎず、その取り組む近代化諸政策の導入など許せるものではなかった。彼らに支配された琉球王国は、「300年に及ぶ奴隷制度国家」だったのだ。
沖縄がかつて琉球王国であった頃、武器すら持たない平和な国だったというのだ。当時、聞いたこともなかったバジル・ホールの航海記を持ち出され、彼が琉球を武器を持たない平和な地としてナポレオンに紹介したなどと聞かされて、大きな違和感を持ちながらなんの反論もできなかった。
彼らは、その琉球を明治政府は力で日本に編入した琉球処分は、沖縄の不幸の始まりだと言っていたのだ。
8世紀に成立した、奈良時代の日本に仏教の戒律を伝えた鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(淡海三船著)に753(天平勝宝5)年、遣唐使一行が阿児奈波(あこなは)島に漂着したと記されており、これが沖縄という地名と同じものだと考えられる。これに対して琉球というのは中国風の言い方で、古くは屋久島を指して「流求」と記されたようだ。また、台湾とも区別されずに使われていたという指摘もある。
琉球という地名が確定したのは、明をおこした太祖洪武帝が1372年に使者として楊載を派遣して中山王察度を服属させたのが始まり。この時、明はこの国を琉球と呼び、以後、琉球は国王が中国皇帝によって任命される国になった。
察度王の時は北山、南山、中山に分かれていて、それぞれに王がいた。1429年、中山王の尚巴志が三山を統一して琉球王国として中国の冊封体制に入った。
戦国時代末期、薩摩の島津義久は全九州をほぼ制覇した。しかし、大友宗麟が豊臣秀吉がに出兵を求めたため形勢は逆転し、島津家は薩摩、大隅二カ国の領主に後退した。その時の島津家は九州制覇のために多くの武士を高録で抱えた状態にあったので、財政は破綻した。石田三成から新しい国内経済運営を学び朝鮮出兵の奮戦で日向国を取り戻し一息ついた島津氏であったが、関ヶ原で西軍に加担するという戦略ミスを犯し、再び日向国を失った。
時の当主の島津家久は琉球王国領奄美王島の砂糖を狙って、家康に許可を求めて許された。それどころか、事のついでに琉球本島まで遠征し、琉球王国を占領して日本領にしてしまえと求めてきた。
琉球国王尚寧は首里城を包囲されて二日間で降伏を願い出た。かつて明は、朝鮮まで出兵して秀吉軍と戦った。尚寧王、あるいは最高顧問の立場にあった謝名親方には、その頭があったかもしれない。しかし、明は来なかった。明は文禄・慶長の役で国力を損耗し、満州族の侵入に、自らが悩まされる立場にあった。朝鮮は陸続きだが、琉球は海によって隔てられていた。かつて秀吉軍と戦った泗川の戦いで数倍の明国軍を撃破したのは、ほかならぬ島津軍であった。
家康はなにを考えていたのか。明との貿易の利益を独占しようとすれば、朝貢貿易にしろ、勘合貿易にしろ、足利義満がやったように、中華皇帝の家臣の立場をとる必要があった。つまり、明による冊封を受け入れることである。それが嫌だということになれば、日本のかわりに頭を下げて明の家臣となり朝貢もするが、実質的には日本の一部であるという“ダミー”としての琉球王朝が必要となったのである。
しかし、そのようにして手に入れた琉球王国という貴重な存在を、幕府は貿易面においては有効活用しなかった。家康が、武士の基本理念として取り入れた朱子学の弊害である。家康は、明智光秀や豊臣秀吉のように、さらには自分自身のように、主を平気で裏切る人間をこの世から根絶し、武士の世界に忠誠という道徳を確立しようとした。
たしかに朱子学にはそういった効用があった。しかし同時に、商業軽視という、それまでの日本には全くなかった効用も含まれていた。日本には古来より商売や貿易を悪いことだとは、まったく考えていなかった。平清盛、足利義満、大内氏や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、貿易を悪とする発想はなかった。
ところが、家康が朱子学を武士の基本理念として取り入れたことで、江戸時代の武士たちは商売を悪だと考えるようになってしまった。長崎を通じてのオランダとの交易も、本来、幕府に莫大な利益をもたらすはずなのに、それを長崎商人に丸投げしてしまった。この構造にメスを入れようとした田沼意次は、商業を悪と考える松平定信に引きずり降ろされた。
まさに朱子学こそが、せっかく家康が手に入れた琉球王国という打ち出の小づちを、有効活用できずに終わる原因であった。そのかわり、琉球王国は薩摩藩によって有効活用された。
1609年の薩摩藩による征服以来、琉球王国は3つの側面を持つことになる。第一に、薩摩藩を実質的管理者として幕藩体制の一環に編成されていた。第二に、清国との間に伝統的な外交・貿易関係を持ち、国王は皇帝の冊封を受け、定期的に朝貢を行っていた。第三に、独自の王国体制をもって領内を直接経営していた。
『逆説の日本史23 明治揺籃編』 井沢元彦 小学館 ¥ 1,760 沖縄が、どこか韓国に似ているように思われるのはなぜだ? |
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明治維新によって日本が近代国家に生まれ変わるにあたり、琉球王国もその存在の曖昧さを抱えたままではいられなかった。世界に向けて開国した日本にとって、貿易の道具としての琉球は必要ない。そこで明治政府は1871(明治4)年、廃藩置県を断行し鹿児島藩を廃止した際に琉球を鹿児島県管轄とした。その上で、翌1872(明治5)年、明治天皇は琉球国王尚泰を琉球藩王とし、侯爵として華族に叙し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告した。
1872(明治5)年、前年台湾に漂着した琉球宮古島の住民の生存者12名が送還されてきた。彼らは生き残りで、54名が台湾原住民に殺されていた。大久保利通はこれを巧妙に利用した。大久保はまず清国に抗議し、謝罪と賠償を求めた。清国がこれに応じれば、宮古島島民を日本国民と認めたことになるので、当然琉球が日本領であることを認めたことになる。ところが、清国は、台湾原住民を「中華皇帝の徳化の及ばない化外の民」であるからその行動については関知しない旨、日本側に通達してきた。大久保利通は清国の主権を侵さないなら自ら台湾原住民を討伐すると軍を差し向けた。不平士族の不満がたまっていたこともあり、そのガス抜きもかねて西郷隆盛の弟従道を司令官に義勇兵3000で台湾を攻めた。清国は主権の侵害であると抗議し、即時撤兵を要求してきた。大久保は清国と交渉して、撤兵に応じる代わりに賠償金を獲得することに成功した。つまり、清国に琉球は日本領であると認めさせた。
1878(明治11)年、大久保利通は暗殺されたが、内務卿を引き継いだ伊藤博文の命により、警官約160名と陸軍熊本鎮台から一個大隊約400名が首里城を接収し、琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通達した。これが琉球処分である。
琉球がほとんど非武装状態だったので流血の惨事は免れたが、琉球の上流階級は琉球処分に強く抵抗した。日本は、それを無理やり断行した。
伊波普猷は『沖縄歴史物語』のなかで、「琉球処分は一種の奴隷解放」と述べている。尚王家とそれを取りまく上流階級は、清国と同じ朱子学を根本道徳とした身分制秩序に支えられた国家を指向していた。士農工商が基本であり身分の壁を乗り越えようとすることは“悪”であった。足軽上がりの伊藤博文が内務卿を務める日本など野蛮国家に過ぎず、その取り組む近代化諸政策の導入など許せるものではなかった。彼らに支配された琉球王国は、「300年に及ぶ奴隷制度国家」だったのだ。
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