『指揮官たちの特攻』 城山三郎
この本は、神風特別攻撃隊第一号に選ばれ、レイテ沖に散った関行男大尉と、敗戦を知らされないまま玉音放送後に最後の特攻隊員として沖縄に飛び立った中津留達夫大尉、二人の写真が表紙を飾る。
最初の特攻隊員の関と、最後の特攻隊員の中津留の二人は、真珠湾攻撃直前の昭和16年11月に海軍兵学校を卒業した。つまり同期である。ともに飛行科を志願し、ともに宇佐航空隊においてわずか5人に絞られた艦上爆撃機乗りとしての道を歩んだ。
しかし、正反対とも言えるほど性格が違っていたからか、これだけ身近にありながら二人の接点はない。関は、後輩に対する締め付けが激しく、「鷹のような目つき」で激しく指導した。後輩にすれば、恐い教官の最右翼だった。“地獄の宇佐空”、“鬼の宇佐空”を体現する人物だった。
それに対して中津留は、その技能は宇佐空の中でも指折りでありながら、“地獄の宇佐空”、“鬼の宇佐空”とはまったく無縁の人物で、部下からも「中津留大尉とともに・・・」と慕われていた。二人は同じ宇佐』空で、ともに4ヶ月を過ごし、その後、関は霞ヶ浦航空隊に配属されていった。
接点のない二人ではあるが、もう一つ共通することがある。戦局が厳しさを増す昭和19年、二人は同じように結婚して、新妻とともに、最後に幸せな家庭生活を送っている。そして、新妻を残して、関は昭和19年10月25日、中津留は20年8月15日に、それぞれ最初の、そして最後の特攻隊員として戦陣に散った。
表紙を飾る二人の写真は、それぞれに、自身の性格をそのまま表現しているかのように、関は見るからに精悍に、中津留は見るからに温厚に写っている。
じつは、それぞれの特攻は、どちらもそれぞれに理不尽な背景を抱えていた。
関に関しては、こうである。当時、圧倒的に優勢なアメリカ艦隊に対し、一機必中の体当たり敢行しかないという話は出ていた。後に、桜花と呼ばれる人間ロケット弾の乗員募集が行なわれるに当たって、「親一人・子一人のもの」、「長男」、「妻子ある者」に退場を命じた上で志願を募った。関は、そのすべてが当てはまる。
中津留に関しては、こうである。昭和20年8月15日、中将の宇垣纒は、サンフランシスコ放送が日本がポツダム宣言を受諾し戦争が終わったと放送しているのを知っていた。知っていながら、中津留に特攻の命令を出した。自分も同乗して突っ込むと。宇垣纒に関しては、日本の敗戦を承知した上での自殺である。それに部下を巻き添えにしようとした。


しかも、宇垣纒は、日本のポツダム宣言受諾で勝利を確信し、警戒を解いた沖縄の米軍に攻撃を仕掛けようとした。巻き添えにしようとしたのは部下だけではなく、戦後の日本の命運も巻き添えにすることを躊躇しなかった。
この突入は、他の特攻とは違うところがあったそうだ。通常、掩護戦闘機がない場合、特攻を報せるために基地に打電するそうだ。「セカ・セカ・セカ」で敵戦艦発見を伝え、「ト・ト・ト」で突入態勢に入ったことを伝え、「ツー」という長音符が続く。その切れたときが体当たりの瞬間となる。
中津留機の長音符は、通常よりも長かったらしい。それを、この本の著者城山三郎さんは、こう推理する。
その日、沖縄前泊の米軍キャンプでは、戦勝を祝うビア・パーティが、もはや特攻もないと、煌々と明かりをつけたまま開かれていた。そこへ特攻機が爆音をとどろかせて突っ込んでくる。
中津留は気がついていたはずだ。沖縄に向かう艦上爆撃機彗星から、空にも海にも、もはや敵がいないことに。伝声管を通して、同乗する宇垣纒に問い質したはずだ。
それでも宇垣は、米軍キャンプの弛緩しきったビア・パーティ会場への特攻を命じる。「セカ・セカ・セカ ト・ト・ト ツー」、最後の長音符が通常よりも長かったのは、中津留大尉が突入すると見せかけて、寸前で回避していたからだと。
艦上爆撃機乗り有数の技能を持つ中津留大尉は、狙い通りパーティ会場を外して突入したのだと。
日本はいろいろな意味で稚拙だった。真珠湾攻撃がなかったとしても、なんとしても早晩アメリカは、日本との戦争を始めた。日本が真珠湾を攻撃しないなら、アメリカが自分でアリゾナを沈めて日本のせいにすりゃいいだけのこと。米西戦争の時はそうだった。戦時プロパガンダはお手の物。
問題にすべきはそのことじゃない。軍隊が学歴を官僚組織になりきっていたこと。軍隊の中にいじめが蔓延していたこと。分かっていながら、それを上層部がそれを黙認していたこと。上層部、特に参謀本部に兵士の命を軽んじて顧みないエリート主義が蔓延していたこと。

それでも、宇垣纒みたいな後先考えない指揮官もいる。さらには、牟田口廉也、源田実、瀬島龍三らのように、自分の作戦でどれだけの若者の血が流されようが気に留めないような奴はごちゃごちゃいた。
大西瀧次郎は十字腹を切り、喉を突き、胸を突いて、なおみずからの血の海に十五時間のたうちまわった挙句に亡くなったという。それが、大西らによって望み多き前途を絶たれ、空に、海に、散っていった若者たちの御霊を慰めるものであったかどうかはわからない。
最初の特攻隊員の関と、最後の特攻隊員の中津留の二人は、真珠湾攻撃直前の昭和16年11月に海軍兵学校を卒業した。つまり同期である。ともに飛行科を志願し、ともに宇佐航空隊においてわずか5人に絞られた艦上爆撃機乗りとしての道を歩んだ。
しかし、正反対とも言えるほど性格が違っていたからか、これだけ身近にありながら二人の接点はない。関は、後輩に対する締め付けが激しく、「鷹のような目つき」で激しく指導した。後輩にすれば、恐い教官の最右翼だった。“地獄の宇佐空”、“鬼の宇佐空”を体現する人物だった。
それに対して中津留は、その技能は宇佐空の中でも指折りでありながら、“地獄の宇佐空”、“鬼の宇佐空”とはまったく無縁の人物で、部下からも「中津留大尉とともに・・・」と慕われていた。二人は同じ宇佐』空で、ともに4ヶ月を過ごし、その後、関は霞ヶ浦航空隊に配属されていった。
接点のない二人ではあるが、もう一つ共通することがある。戦局が厳しさを増す昭和19年、二人は同じように結婚して、新妻とともに、最後に幸せな家庭生活を送っている。そして、新妻を残して、関は昭和19年10月25日、中津留は20年8月15日に、それぞれ最初の、そして最後の特攻隊員として戦陣に散った。
表紙を飾る二人の写真は、それぞれに、自身の性格をそのまま表現しているかのように、関は見るからに精悍に、中津留は見るからに温厚に写っている。
じつは、それぞれの特攻は、どちらもそれぞれに理不尽な背景を抱えていた。
関に関しては、こうである。当時、圧倒的に優勢なアメリカ艦隊に対し、一機必中の体当たり敢行しかないという話は出ていた。後に、桜花と呼ばれる人間ロケット弾の乗員募集が行なわれるに当たって、「親一人・子一人のもの」、「長男」、「妻子ある者」に退場を命じた上で志願を募った。関は、そのすべてが当てはまる。
中津留に関しては、こうである。昭和20年8月15日、中将の宇垣纒は、サンフランシスコ放送が日本がポツダム宣言を受諾し戦争が終わったと放送しているのを知っていた。知っていながら、中津留に特攻の命令を出した。自分も同乗して突っ込むと。宇垣纒に関しては、日本の敗戦を承知した上での自殺である。それに部下を巻き添えにしようとした。
『指揮官たちの特攻』 城山三郎 新潮文庫 ¥ 539 結婚し、家庭の幸せもつかんでいた二人の青年指揮官は、いかにその時を迎えたのか |
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しかも、宇垣纒は、日本のポツダム宣言受諾で勝利を確信し、警戒を解いた沖縄の米軍に攻撃を仕掛けようとした。巻き添えにしようとしたのは部下だけではなく、戦後の日本の命運も巻き添えにすることを躊躇しなかった。
この突入は、他の特攻とは違うところがあったそうだ。通常、掩護戦闘機がない場合、特攻を報せるために基地に打電するそうだ。「セカ・セカ・セカ」で敵戦艦発見を伝え、「ト・ト・ト」で突入態勢に入ったことを伝え、「ツー」という長音符が続く。その切れたときが体当たりの瞬間となる。
中津留機の長音符は、通常よりも長かったらしい。それを、この本の著者城山三郎さんは、こう推理する。
その日、沖縄前泊の米軍キャンプでは、戦勝を祝うビア・パーティが、もはや特攻もないと、煌々と明かりをつけたまま開かれていた。そこへ特攻機が爆音をとどろかせて突っ込んでくる。
中津留は気がついていたはずだ。沖縄に向かう艦上爆撃機彗星から、空にも海にも、もはや敵がいないことに。伝声管を通して、同乗する宇垣纒に問い質したはずだ。
それでも宇垣は、米軍キャンプの弛緩しきったビア・パーティ会場への特攻を命じる。「セカ・セカ・セカ ト・ト・ト ツー」、最後の長音符が通常よりも長かったのは、中津留大尉が突入すると見せかけて、寸前で回避していたからだと。
艦上爆撃機乗り有数の技能を持つ中津留大尉は、狙い通りパーティ会場を外して突入したのだと。
日本はいろいろな意味で稚拙だった。真珠湾攻撃がなかったとしても、なんとしても早晩アメリカは、日本との戦争を始めた。日本が真珠湾を攻撃しないなら、アメリカが自分でアリゾナを沈めて日本のせいにすりゃいいだけのこと。米西戦争の時はそうだった。戦時プロパガンダはお手の物。
問題にすべきはそのことじゃない。軍隊が学歴を官僚組織になりきっていたこと。軍隊の中にいじめが蔓延していたこと。分かっていながら、それを上層部がそれを黙認していたこと。上層部、特に参謀本部に兵士の命を軽んじて顧みないエリート主義が蔓延していたこと。
『特攻の真意』という本がある。特攻という愚策を若者たちに押しつけて、死なせていった大西瀧次郎の“真意”という意味だ。もちろんその“真意”がいかなるものであったとしても、特攻で散っていった若者たちに言い訳できることではない。 |
それでも、宇垣纒みたいな後先考えない指揮官もいる。さらには、牟田口廉也、源田実、瀬島龍三らのように、自分の作戦でどれだけの若者の血が流されようが気に留めないような奴はごちゃごちゃいた。
大西瀧次郎は十字腹を切り、喉を突き、胸を突いて、なおみずからの血の海に十五時間のたうちまわった挙句に亡くなったという。それが、大西らによって望み多き前途を絶たれ、空に、海に、散っていった若者たちの御霊を慰めるものであったかどうかはわからない。
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