『祖国とは国語』 藤原正彦
武漢の食物市場を中心にした地域でアウトブレイクが発生している。
新型コロナウイルスはエアロゾル感染により広がっている。
感染はすでに、オーバーシュートの状態となった。
一部の地域で、クラスターが発生している。
サイレントキャリアが、街にあふれている。
ソーシャルディスタンスを保とう。
東京はロックダウンしない。
この感染症に関わる一連の報道では、臆面もなくさまざまなカタカナ言葉が飛びかっている。報道番組を見てて、「分からないよ~」って頭を抱えた。そのうち、それらのカタカナ言葉を、その報道番組の中で解説してた。・・・最初から分かるように言えばいいのに。その解説を見てない人は、いつまで経っても分からないことになるんだろうか。分かるように伝える方法があるのに、あえてその言葉を使う理由はなんなんだろうか。
一般にカタカナ語が使われる理由として考えられるのは、・・・
渡辺京二さんが『未踏の野を過ぎて』の中で書いていた。「日本語こそ、我がふるさと」と。満州で生まれ、終戦後に引揚げてきた渡辺さんには、場所としての“ふるさと”がない。大事にすべき場所としての“ふるさと”がない渡辺さんは、日本語という“ふるさと”を大事にしている人だった。
では祖国とは?
血ではない。いずれの民族も混じり合っていて、純粋な血などというものは存在しない。さすがに日本人でさえ、今や、それを主張できるほど呑気ではない。
国土でもない。もしそうだとすれば、渡辺京二さんは祖国も持たないことになる。ヨーロッパ大陸においては、それこそ有史以来戦いに明け暮れ、そのたびに国土の奪い合いを繰り返し、その都度その形を変えている。にもかかわらず、フランスもドイツもポーランドもなくならない。


祖国とは国語である。
もとはフランスのシオランという人の言葉だという。国語の中には、祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されている。だから、国語を失うことがなければ、祖国を失うことはないと言うことになる。
グローバル化を推し進める正義の前に、学校での英語教育重要視化は高まるばかり。たしかに、「英語がもっとできたら」と思う人は少なくないだろう。何を隠そう、私もそう思って、お金と時間を削ったことがあった。結局そのお金と時間を、別に使いたい欲求が生まれて挫折した。
しかしもし、それを続けることが自分にとって絶対的に必要であったなら、そのお金と時間を別に使うことなく、今頃はペラペーラとやっていただろう。どうしてそれじゃダメなんだろう。どうして英語以外の興味関心も、そこそこ応援してやろうと言うことにならないんだろう。
たしかに世界が一様化されることは便利であるかも知れない。たとえば、言葉が英語に一様化されたら、翻訳こんにゃくを作る必要がない。しかし、人類の文化は、間違いなく深みを失い、おもしろくもなんともないものになる。
言語とは文化伝統であり、民族としてのアイデンティティーである。世界各地の文化伝統は、その自然的、社会的、政治的、歴史的環境のもとに結実したものである。これを受け継ぎ、次の世代に伝えていくことは、「こういう風にして生きてきたんだよ」と教えることに他ならない。
それが英語だけに一様化されると言うことは、一通りの生き方しか残されない、伝えられない、許されないと言うことを意味している。そう考えれば、人類にとっての大きな損失である。多様な伝統文化を守り発展させることこそ、“人類の大義”と藤原さんは言っている。
実際、翻訳こんにゃくは完成している。私たち、日本語を祖国とするものにとって、英語とは、英語を祖国とするものとの間のコミュニケーションの道具でしかない。だとしたら、翻訳こんにゃくで十分なのだ。
「次で例の件フィックスするから、ミーティングをアレンジしといて。あ、アジェンダ先にシェアしといてね」っていうわけの分からない指示は、「次回、例の件の仕様を最終決定するので、会議の日時設定や準備をしておいてください。議題については、事前に参加者に共有してくださいね」と言い替えられるそうです。
イヤミはおフランスにくれてやりましょう。
新型コロナウイルスはエアロゾル感染により広がっている。
感染はすでに、オーバーシュートの状態となった。
一部の地域で、クラスターが発生している。
サイレントキャリアが、街にあふれている。
ソーシャルディスタンスを保とう。
東京はロックダウンしない。
この感染症に関わる一連の報道では、臆面もなくさまざまなカタカナ言葉が飛びかっている。報道番組を見てて、「分からないよ~」って頭を抱えた。そのうち、それらのカタカナ言葉を、その報道番組の中で解説してた。・・・最初から分かるように言えばいいのに。その解説を見てない人は、いつまで経っても分からないことになるんだろうか。分かるように伝える方法があるのに、あえてその言葉を使う理由はなんなんだろうか。
一般にカタカナ語が使われる理由として考えられるのは、・・・
- 普段属している集団で使われているから
- 覚え立ての言葉を使いたいから
- イヤミだから
渡辺京二さんが『未踏の野を過ぎて』の中で書いていた。「日本語こそ、我がふるさと」と。満州で生まれ、終戦後に引揚げてきた渡辺さんには、場所としての“ふるさと”がない。大事にすべき場所としての“ふるさと”がない渡辺さんは、日本語という“ふるさと”を大事にしている人だった。
では祖国とは?
血ではない。いずれの民族も混じり合っていて、純粋な血などというものは存在しない。さすがに日本人でさえ、今や、それを主張できるほど呑気ではない。
国土でもない。もしそうだとすれば、渡辺京二さんは祖国も持たないことになる。ヨーロッパ大陸においては、それこそ有史以来戦いに明け暮れ、そのたびに国土の奪い合いを繰り返し、その都度その形を変えている。にもかかわらず、フランスもドイツもポーランドもなくならない。
『祖国とは国語』 藤原正彦 新潮文庫 ¥ 506 国語は、論理を育み、情緒を培い、教養の支えとなる読書する力を生む |
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祖国とは国語である。
もとはフランスのシオランという人の言葉だという。国語の中には、祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されている。だから、国語を失うことがなければ、祖国を失うことはないと言うことになる。
グローバル化を推し進める正義の前に、学校での英語教育重要視化は高まるばかり。たしかに、「英語がもっとできたら」と思う人は少なくないだろう。何を隠そう、私もそう思って、お金と時間を削ったことがあった。結局そのお金と時間を、別に使いたい欲求が生まれて挫折した。
しかしもし、それを続けることが自分にとって絶対的に必要であったなら、そのお金と時間を別に使うことなく、今頃はペラペーラとやっていただろう。どうしてそれじゃダメなんだろう。どうして英語以外の興味関心も、そこそこ応援してやろうと言うことにならないんだろう。
たしかに世界が一様化されることは便利であるかも知れない。たとえば、言葉が英語に一様化されたら、翻訳こんにゃくを作る必要がない。しかし、人類の文化は、間違いなく深みを失い、おもしろくもなんともないものになる。
言語とは文化伝統であり、民族としてのアイデンティティーである。世界各地の文化伝統は、その自然的、社会的、政治的、歴史的環境のもとに結実したものである。これを受け継ぎ、次の世代に伝えていくことは、「こういう風にして生きてきたんだよ」と教えることに他ならない。
それが英語だけに一様化されると言うことは、一通りの生き方しか残されない、伝えられない、許されないと言うことを意味している。そう考えれば、人類にとっての大きな損失である。多様な伝統文化を守り発展させることこそ、“人類の大義”と藤原さんは言っている。
実際、翻訳こんにゃくは完成している。私たち、日本語を祖国とするものにとって、英語とは、英語を祖国とするものとの間のコミュニケーションの道具でしかない。だとしたら、翻訳こんにゃくで十分なのだ。
「次で例の件フィックスするから、ミーティングをアレンジしといて。あ、アジェンダ先にシェアしといてね」っていうわけの分からない指示は、「次回、例の件の仕様を最終決定するので、会議の日時設定や準備をしておいてください。議題については、事前に参加者に共有してくださいね」と言い替えられるそうです。
イヤミはおフランスにくれてやりましょう。
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