『朝嵐』 矢野隆
源為朝という怪物を知ったのは、『椿説弓張月』だったんだろうな。
だけど、どんな本で読んだのか、それがまったく記憶にない。昔はよく、“なんとか読本”なんていうのがあったので、おそらく簡単に読める、そんな感じの本だったんじゃないかと思う。私の人生の中でも、源為朝は、かなり早い段階で巡り合ったヒーローということだったろう。
歴史上のヒーロー遍歴でいうと、為朝から同じ源氏の義経に移行する。その後は、大河ドラマで取扱われるような人物を、頼朝と家康を除いて、一回りするような形になった。海外勢も時々顔を出して、最初はなんといってもアレクサンダーだな。中学2年の時だ。アレクサンダーをきっかけに世界史に興味が移り、ハンニバルやカエサルに惹かれるようになった。
そう、思い出してみると、なんだか源為朝というのは、なんだか異質な気がするな。おそらく私が読んだ『椿説弓張月』は、子どもでも面白く読めるように書かれたものだったろうけど、今、こうして『朝嵐』で源為朝の人生をたどってみると、やはり怪物というしかない。
純粋な強さだけを追い求めたその生き方は、当時の武士の中にあっても、やはり異質なものだったろう。あんなにも純粋に、強さを追い求めた生き方が、本当に可能だったのか、そのへんは少し疑わしい。
平安時代に入り、権力は藤原家に独占された。奥羽の蝦夷討伐後、平安政権は治安維持を放棄し、中央以上に地方は混乱した。地方の土豪は武装して自衛する武装農民化する。しかし、それだけでは足りず、自らの土地を権力者に寄進して、その保護下に入ることになる。
藤原家の荘園ばかりになってしまって、税も集まらない状況では、皇族にも臣籍降下するものが少なくなかった。彼らが平氏、源氏の名で地方に下ると、地方の土豪は彼らの“平”、“源”の名の下に集まり、それなりの勢力を持つようになる。
それでも結局、彼らは荘園の寄進を受けた権力者の庇護のもとに、その戦力となることで、自分の土地と立場を守らなければならなかった。“一所懸命”に生きる武士たちの棟梁たる源氏の者として、為朝のような生き方があり得たとは、なかなか思えない。
為朝の父、為義は、八幡太郎義家の孫にあたる。前九年の役、後三年の役で活躍した義家だけど、東国武士の信頼を勝ち得た義家の末裔を、平安政権はどこか警戒していったように見える。なんだか、このあたり、平安政権は源氏に冷たい。逆に平氏を優遇して源氏の先行を押さえようとしている。


『朝嵐』の中で、為朝が一途に強さを追い求めるきっかけを作ったのは、兄の義朝だった。どうやら義朝は、父の為義から煙たがられていたらしい。京で権力におもねる道を選択した父から東国に追いやられたのは、義朝にとっては幸運でもあったろう。
私の家は、埼玉県東松山市、畠山重忠の本拠とした菅谷館はほど近い。かつては菅谷村と呼ばれたが、ここを訪れた本多静六博士が近所を流れる槻川の景観にふれ、「嵐山のようだ」と言ったことから、町制施行するにあたり、嵐山町と名乗るようになった。
その嵐山町に大蔵神社というところがある。
東国を新天地として力を伸ばす義朝に対し、それを牽制するために為義は、義朝の弟の義賢を東国に差し向ける。権力者から力を押さえられようとすると同時に、源氏は内輪でももめ事を繰り返した。
義賢は現嵐山町にあった拠点である大蔵館を、義朝の子にあたる悪源太義平に襲われて死んでいる。それが、今、大蔵神社になっているところである。その時、家臣が助けた義賢の子が、のちの木曽義仲になる。近くにある鎌形八幡宮には木曽義仲産湯の清水とされるものが残されている。
平氏の軍勢を最初に京都から追い落とすのは義仲と言うことになるわけだから、それを考えると、やはり源氏には、強い武人を産む血が受け継がれているように感じられる。
為朝の生き方はハチャメチャだ。保元の乱で崇徳上皇方に組みして逆賊となったのはやむを得ないとしても、九州時代にもその傾向があったが、伊豆大島に流されてのちは、あえて逆賊として生きている。
やはり、大河ドラマでは使い切れないところだろう。
それでも、為朝の血を引く子が琉球に渡り、琉球王家の祖、舜天になったというのは、説として捨てがたい。なにしろ、為朝が嫌い抜いた、義賢の子でさえ義仲という怪物になった。
だけど、どんな本で読んだのか、それがまったく記憶にない。昔はよく、“なんとか読本”なんていうのがあったので、おそらく簡単に読める、そんな感じの本だったんじゃないかと思う。私の人生の中でも、源為朝は、かなり早い段階で巡り合ったヒーローということだったろう。
歴史上のヒーロー遍歴でいうと、為朝から同じ源氏の義経に移行する。その後は、大河ドラマで取扱われるような人物を、頼朝と家康を除いて、一回りするような形になった。海外勢も時々顔を出して、最初はなんといってもアレクサンダーだな。中学2年の時だ。アレクサンダーをきっかけに世界史に興味が移り、ハンニバルやカエサルに惹かれるようになった。
そう、思い出してみると、なんだか源為朝というのは、なんだか異質な気がするな。おそらく私が読んだ『椿説弓張月』は、子どもでも面白く読めるように書かれたものだったろうけど、今、こうして『朝嵐』で源為朝の人生をたどってみると、やはり怪物というしかない。
純粋な強さだけを追い求めたその生き方は、当時の武士の中にあっても、やはり異質なものだったろう。あんなにも純粋に、強さを追い求めた生き方が、本当に可能だったのか、そのへんは少し疑わしい。
平安時代に入り、権力は藤原家に独占された。奥羽の蝦夷討伐後、平安政権は治安維持を放棄し、中央以上に地方は混乱した。地方の土豪は武装して自衛する武装農民化する。しかし、それだけでは足りず、自らの土地を権力者に寄進して、その保護下に入ることになる。
藤原家の荘園ばかりになってしまって、税も集まらない状況では、皇族にも臣籍降下するものが少なくなかった。彼らが平氏、源氏の名で地方に下ると、地方の土豪は彼らの“平”、“源”の名の下に集まり、それなりの勢力を持つようになる。
それでも結局、彼らは荘園の寄進を受けた権力者の庇護のもとに、その戦力となることで、自分の土地と立場を守らなければならなかった。“一所懸命”に生きる武士たちの棟梁たる源氏の者として、為朝のような生き方があり得たとは、なかなか思えない。
為朝の父、為義は、八幡太郎義家の孫にあたる。前九年の役、後三年の役で活躍した義家だけど、東国武士の信頼を勝ち得た義家の末裔を、平安政権はどこか警戒していったように見える。なんだか、このあたり、平安政権は源氏に冷たい。逆に平氏を優遇して源氏の先行を押さえようとしている。
『朝嵐』 矢野隆 中央公論新社 ¥ 1,870 源八郎為朝。武士として生きるため、異常な弓の鍛錬を続けた男 |
|
『朝嵐』の中で、為朝が一途に強さを追い求めるきっかけを作ったのは、兄の義朝だった。どうやら義朝は、父の為義から煙たがられていたらしい。京で権力におもねる道を選択した父から東国に追いやられたのは、義朝にとっては幸運でもあったろう。
私の家は、埼玉県東松山市、畠山重忠の本拠とした菅谷館はほど近い。かつては菅谷村と呼ばれたが、ここを訪れた本多静六博士が近所を流れる槻川の景観にふれ、「嵐山のようだ」と言ったことから、町制施行するにあたり、嵐山町と名乗るようになった。
その嵐山町に大蔵神社というところがある。
東国を新天地として力を伸ばす義朝に対し、それを牽制するために為義は、義朝の弟の義賢を東国に差し向ける。権力者から力を押さえられようとすると同時に、源氏は内輪でももめ事を繰り返した。
義賢は現嵐山町にあった拠点である大蔵館を、義朝の子にあたる悪源太義平に襲われて死んでいる。それが、今、大蔵神社になっているところである。その時、家臣が助けた義賢の子が、のちの木曽義仲になる。近くにある鎌形八幡宮には木曽義仲産湯の清水とされるものが残されている。
平氏の軍勢を最初に京都から追い落とすのは義仲と言うことになるわけだから、それを考えると、やはり源氏には、強い武人を産む血が受け継がれているように感じられる。
為朝の生き方はハチャメチャだ。保元の乱で崇徳上皇方に組みして逆賊となったのはやむを得ないとしても、九州時代にもその傾向があったが、伊豆大島に流されてのちは、あえて逆賊として生きている。
やはり、大河ドラマでは使い切れないところだろう。
それでも、為朝の血を引く子が琉球に渡り、琉球王家の祖、舜天になったというのは、説として捨てがたい。なにしろ、為朝が嫌い抜いた、義賢の子でさえ義仲という怪物になった。
- 関連記事
-
- 『天穹の船』 篠綾子 (2020/09/17)
- 『もののふの国』 天野純希 (2020/09/03)
- 『朝嵐』 矢野隆 (2020/07/25)
- 『熱源』 川越宗一 (2020/03/27)
- 『道鏡』 三田誠広 (2020/03/15)