憲法『学問』 西部邁
主権とは崇高な権利のことであり、本来、神や仏のような超越的存在に宛がわれる正しさのことをさす。人民主権というように、そういうすごい権利を人民が持っているし、持つべきだと宣せられると、人民の欲望のすべてが、少なくともあらゆる切実な欲望が、権利とみなされ始める。道理において不完全たるを免れない世俗の存在は、王であれ、貴族であれ、民衆であれ、主権を有してはならない。
主権、厳密に言えば準主権にとどまるものは、せいぜいガ歴史の英知である伝統の精神が、それを授かるとするべきだ。
人間は知性と徳性のいずれにあっても、完成可能ではないと弁えておけばいい。そうすれば、自分の欲望が実現されることを、それが切実であるという理由だけで、基本的人権とみないしてはならないと了解できるだろう。
人民主権は、「神を殺した」人間が、神になろうとする傲慢の罪なのだ。
義務の観念は、人が自らを知性的にも道徳的にも不完全であると認め、その不完全さを補うために、歴史の英知としての道理には従順であろうと努めるところに成長する。
義務の本質は、禁止規則を守るというところにある。そして権利というのは、「禁止されていないことは為しても良い」という意味での許容規則から生まれてくる。「為しても良い」のは自由であるが、その自由の可能性を権利と呼ぶ。
義務はルールを守る行為であり、権利はルールが守られたあとで補償される行為である。あえて言えば、義務は重く、権利は軽いということになる。
人民主権などと自ら主権者を名乗り、自らの不完全性に盲目となって道理を忘れれば、やがて権利が肥大化して義務を屈服させることになる。
政治の本質は、未来の不確実性へ向けての決断という点にある。
政治の決断は、古き制度を破壊しつつ未来に進み続ける。しかし、一般に、破壊が常に良い事態の創造のためのものであるとは限らない。破壊が進歩であるためには、政治を古き道徳につなぎ止める慎重さが要求される。
ただし、それは一般論である。今、破壊しなければならないのは70年以上前に、戦争で日本に勝ったアメリカ合衆国から強制された憲法である。その憲法こそが日本を古き道徳から切り離してしまった根源であった。
日本人は借り物の律令よりも、御成敗式目のように道理をもとに生きてきた。その道理は、歴史、慣習、伝統の中で構築された社会的価値観であり、アメリカによって押しつけられた日本国憲法は、それを無視して、さらには否定して作られたものだった。
だから、日本国憲法と、それをもとにした法は建前で、本音の部分では道理に従って、ものを考えてきた。しかし、それもそろそろ限界に来ているんだと思う。建前を突き崩し、本音を前に出さなければならない。一気にそこまで持っていくのは難しいだろう。とりあえずは憲法9条だな。
自分の気持ちを前に出しすぎた。
国民は今の厳しい国際状況から判断して、自分たちの憲法を作らないといけないと思っている。それが安倍晋三首相に対する支持になって現れている。今の日本国憲法は、アメリカに押しつけられ、強制された憲法であり、特に憲法9条の改正は厳しい国際情勢を勘案すれば、なんとしても安倍首相に成し遂げてもらわなければというのが国民の思い。
しかし、安倍首相が孤軍奮闘して何とかしようとしても、多くの自民党議員が、議席を失うことを恐れて全然動かない。率先して憲法審査会に誘導しようものなら、朝日新聞はじめマスコミによってたかって叩かれる。改正案を出して強行採決という形は見え見えで、タカ派、右翼とレッテルを貼られる。そうなると選挙を心配しなければならなくなって、結果、火中の栗は拾わない。
いま、自民党に所属する国会議員の多くは、自民党員であることが国会議員を続けていくために有効であるから、自民党に所属しているわけで、彼らにとって政治家というのは職業だからだ。生きていく糧を得るための、職業としての政治家を、政治屋という。
彼らの決断は、日本の未知なる未来に向けての決断ではない。日本の将来よりも、自らの保身である。しかし困ったことに、政治屋に過ぎない彼らが、日本の国政を担う議会という場に、政治家として議席を有している。
その彼らが自分の保身に走るとき、日本の将来が、ドブに捨てられてしまうことになる。
主権、厳密に言えば準主権にとどまるものは、せいぜいガ歴史の英知である伝統の精神が、それを授かるとするべきだ。
人間は知性と徳性のいずれにあっても、完成可能ではないと弁えておけばいい。そうすれば、自分の欲望が実現されることを、それが切実であるという理由だけで、基本的人権とみないしてはならないと了解できるだろう。
人民主権は、「神を殺した」人間が、神になろうとする傲慢の罪なのだ。
義務の観念は、人が自らを知性的にも道徳的にも不完全であると認め、その不完全さを補うために、歴史の英知としての道理には従順であろうと努めるところに成長する。
義務の本質は、禁止規則を守るというところにある。そして権利というのは、「禁止されていないことは為しても良い」という意味での許容規則から生まれてくる。「為しても良い」のは自由であるが、その自由の可能性を権利と呼ぶ。
義務はルールを守る行為であり、権利はルールが守られたあとで補償される行為である。あえて言えば、義務は重く、権利は軽いということになる。
人民主権などと自ら主権者を名乗り、自らの不完全性に盲目となって道理を忘れれば、やがて権利が肥大化して義務を屈服させることになる。
『学問』 西部邁 講談社 ¥ 時価 人生に必要なもの、一人の女性、一人の親友、一つの思い出、一冊の本。その一冊。 |
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政治の本質は、未来の不確実性へ向けての決断という点にある。
政治の決断は、古き制度を破壊しつつ未来に進み続ける。しかし、一般に、破壊が常に良い事態の創造のためのものであるとは限らない。破壊が進歩であるためには、政治を古き道徳につなぎ止める慎重さが要求される。
ただし、それは一般論である。今、破壊しなければならないのは70年以上前に、戦争で日本に勝ったアメリカ合衆国から強制された憲法である。その憲法こそが日本を古き道徳から切り離してしまった根源であった。
日本人は借り物の律令よりも、御成敗式目のように道理をもとに生きてきた。その道理は、歴史、慣習、伝統の中で構築された社会的価値観であり、アメリカによって押しつけられた日本国憲法は、それを無視して、さらには否定して作られたものだった。
だから、日本国憲法と、それをもとにした法は建前で、本音の部分では道理に従って、ものを考えてきた。しかし、それもそろそろ限界に来ているんだと思う。建前を突き崩し、本音を前に出さなければならない。一気にそこまで持っていくのは難しいだろう。とりあえずは憲法9条だな。
自分の気持ちを前に出しすぎた。
国民は今の厳しい国際状況から判断して、自分たちの憲法を作らないといけないと思っている。それが安倍晋三首相に対する支持になって現れている。今の日本国憲法は、アメリカに押しつけられ、強制された憲法であり、特に憲法9条の改正は厳しい国際情勢を勘案すれば、なんとしても安倍首相に成し遂げてもらわなければというのが国民の思い。
しかし、安倍首相が孤軍奮闘して何とかしようとしても、多くの自民党議員が、議席を失うことを恐れて全然動かない。率先して憲法審査会に誘導しようものなら、朝日新聞はじめマスコミによってたかって叩かれる。改正案を出して強行採決という形は見え見えで、タカ派、右翼とレッテルを貼られる。そうなると選挙を心配しなければならなくなって、結果、火中の栗は拾わない。
いま、自民党に所属する国会議員の多くは、自民党員であることが国会議員を続けていくために有効であるから、自民党に所属しているわけで、彼らにとって政治家というのは職業だからだ。生きていく糧を得るための、職業としての政治家を、政治屋という。
彼らの決断は、日本の未知なる未来に向けての決断ではない。日本の将来よりも、自らの保身である。しかし困ったことに、政治屋に過ぎない彼らが、日本の国政を担う議会という場に、政治家として議席を有している。
その彼らが自分の保身に走るとき、日本の将来が、ドブに捨てられてしまうことになる。
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