『柔の道 斎藤仁さんのこと』 山下泰裕編
1985年の全日本選手権の決勝、私は斉藤が勝ったと思った。
4分あたりの返し技は、ポイントにはならなかったものの、斉藤に好印象を残すものだった。結果として、ここから斉藤は守りに入り、責めに徹した山下によって“指導”に追い込まれた。それでも、私は斉藤の勝ちだと思った。
ロサンゼルスのオリンピックは、山下が無差別級、斉藤が95キロ超級の出場だった。たしかに、当時の山下は無敵でだった。それを見て、有力な外国人選手はみんな95キロ超級にまわった。「山下には99パーセント勝てないけど、斉藤なら勝てる確率が少し高くなる」と言うことだったという。
そんな95キロ超級で、斉藤は準決勝までオール一本勝ちだった。決勝こそ判定勝ちだったけど、圧倒的な強さでの優勝だった。無差別級の山下が、足の故障を抱えながら金メダルを取ったことで、注目はそちらに集まった。しかし、戦った相手からすれば、95キロ超級の方が大変な戦いだった。
結局、斉藤は山下に勝てなかったけど、山下の現役最後の頃は、強さそのものは、斉藤の方が上だったろう。
それにしても、この頃、日本には山下と斉藤がいたんだよな。すごかったな。
山下は、斉藤の3年先輩だそうだ。畳の上では常にライバルの二人だけど、畳を降りたら柔道を軸にして信頼し合う中だったという。あるとき、山下が誘って、行きつけの寿司屋に行ったんだそうだ。そこで大ジョッキ3杯ずつを飲み、焼き鳥やウナギの蒲焼き、天ぷらに寿司を食べて、腹一杯になって帰ったんだって。
いつも畳の上で火花を散らしている山下と斉藤が店で豪快に食っていたら、これはおもしろい見物でしょうね。実際、お店の人は、いつけんかになるかと、ドキドキしながら見守っていたらしい。
斉藤の、ケガとの戦いの始まりも覚えている。1985年の世界選手権95キロ超級決勝で、韓国の趙容徹に脇固めをかけられたんだ。あれは、勝てないもんだから、わざと反則に行った。反則取られなかったけど。斉藤は、靱帯を痛めていた。間違いなく反則だ。
だけど、斉藤は弱音も吐かずに、いや、吐いたかも知れない。それでも負けずに、ソウルで95キロ超級の畳に上がった。その時、解説席にいる山下の方を見たそうだ。一番強い男が、一度も勝てなかった男の顔を・・・。


この本を読んで思いだしたのは、登山家の谷口けいさんのこと。
谷口けいさんの死は、あまりにも唐突なものだった。誰もが予期しない、突然の死だった。まだ若く、これからどんなに遠くまで行くんだろうと、周りの人たちは思っていたんだろう。そう、周囲に思わせるだけの実績と、実力と、人格があった。
残された者たちは、その影を追いかけるよりほか無くなってしまった。
パートナーだった平出和也は、谷口けいと挑戦して敗退したカラコルムのシスパーレに、新たにザイルを組んだ中島健郎とともに挑戦する姿を、テレビの番組で見た。登頂したシスパーレの頂の雪の中に、平出は谷口けいの写真を埋めていた。
『柔の道 斎藤仁さんのこと』と題されたこの本を読んで、残された者たちの心情ってのが、谷口けいさんのときと同じようだなって感じた。
2016年のリオデジャネイロ五輪は、ロンドン五輪の惨敗からの復活をめざすオリンピックだった。そのリオデジャネイロ五輪で、斉藤さんは強化委員長になるはずだったんだって。山下さんも斉藤強化委員長の下でリオデジャネイロ五輪を迎えたいと願っていたという。
リオデジャネイロ五輪の柔道会場に立った山下さんは、斉藤さんの愛用していたネクタイをしていたという。斉藤さんの奥さんから渡されたものだという。
それを締めて、一緒に日本代表の戦いを見守ったそうだ。井上康生監督率いる日本男子は、金メダル二つを含め、7階級すべてでメダルを取った。
山下さんも、井上康生さんや鈴木桂治さんも、もちろん二人の息子さんも奥さまも、ずっと斉藤さんの影を追いかけていくんだろうな。
4分あたりの返し技は、ポイントにはならなかったものの、斉藤に好印象を残すものだった。結果として、ここから斉藤は守りに入り、責めに徹した山下によって“指導”に追い込まれた。それでも、私は斉藤の勝ちだと思った。
ロサンゼルスのオリンピックは、山下が無差別級、斉藤が95キロ超級の出場だった。たしかに、当時の山下は無敵でだった。それを見て、有力な外国人選手はみんな95キロ超級にまわった。「山下には99パーセント勝てないけど、斉藤なら勝てる確率が少し高くなる」と言うことだったという。
そんな95キロ超級で、斉藤は準決勝までオール一本勝ちだった。決勝こそ判定勝ちだったけど、圧倒的な強さでの優勝だった。無差別級の山下が、足の故障を抱えながら金メダルを取ったことで、注目はそちらに集まった。しかし、戦った相手からすれば、95キロ超級の方が大変な戦いだった。
結局、斉藤は山下に勝てなかったけど、山下の現役最後の頃は、強さそのものは、斉藤の方が上だったろう。
それにしても、この頃、日本には山下と斉藤がいたんだよな。すごかったな。
山下は、斉藤の3年先輩だそうだ。畳の上では常にライバルの二人だけど、畳を降りたら柔道を軸にして信頼し合う中だったという。あるとき、山下が誘って、行きつけの寿司屋に行ったんだそうだ。そこで大ジョッキ3杯ずつを飲み、焼き鳥やウナギの蒲焼き、天ぷらに寿司を食べて、腹一杯になって帰ったんだって。
いつも畳の上で火花を散らしている山下と斉藤が店で豪快に食っていたら、これはおもしろい見物でしょうね。実際、お店の人は、いつけんかになるかと、ドキドキしながら見守っていたらしい。
斉藤の、ケガとの戦いの始まりも覚えている。1985年の世界選手権95キロ超級決勝で、韓国の趙容徹に脇固めをかけられたんだ。あれは、勝てないもんだから、わざと反則に行った。反則取られなかったけど。斉藤は、靱帯を痛めていた。間違いなく反則だ。
だけど、斉藤は弱音も吐かずに、いや、吐いたかも知れない。それでも負けずに、ソウルで95キロ超級の畳に上がった。その時、解説席にいる山下の方を見たそうだ。一番強い男が、一度も勝てなかった男の顔を・・・。
『柔らの道 斎藤仁さんのこと』 山下泰裕編 講談社 ¥ 1,650 最強の柔道家山下泰裕に「最大にして最高のライバル」と言わしめた男 |
この本を読んで思いだしたのは、登山家の谷口けいさんのこと。
谷口けいさんの死は、あまりにも唐突なものだった。誰もが予期しない、突然の死だった。まだ若く、これからどんなに遠くまで行くんだろうと、周りの人たちは思っていたんだろう。そう、周囲に思わせるだけの実績と、実力と、人格があった。
残された者たちは、その影を追いかけるよりほか無くなってしまった。
パートナーだった平出和也は、谷口けいと挑戦して敗退したカラコルムのシスパーレに、新たにザイルを組んだ中島健郎とともに挑戦する姿を、テレビの番組で見た。登頂したシスパーレの頂の雪の中に、平出は谷口けいの写真を埋めていた。
『柔の道 斎藤仁さんのこと』と題されたこの本を読んで、残された者たちの心情ってのが、谷口けいさんのときと同じようだなって感じた。
2016年のリオデジャネイロ五輪は、ロンドン五輪の惨敗からの復活をめざすオリンピックだった。そのリオデジャネイロ五輪で、斉藤さんは強化委員長になるはずだったんだって。山下さんも斉藤強化委員長の下でリオデジャネイロ五輪を迎えたいと願っていたという。
リオデジャネイロ五輪の柔道会場に立った山下さんは、斉藤さんの愛用していたネクタイをしていたという。斉藤さんの奥さんから渡されたものだという。
それを締めて、一緒に日本代表の戦いを見守ったそうだ。井上康生監督率いる日本男子は、金メダル二つを含め、7階級すべてでメダルを取った。
山下さんも、井上康生さんや鈴木桂治さんも、もちろん二人の息子さんも奥さまも、ずっと斉藤さんの影を追いかけていくんだろうな。
- 関連記事
-
- 『酒場詩人の美学』 吉田類 (2020/12/06)
- 『翔べ!わが想いよ』 なかにし礼 (2020/10/05)
- 『柔の道 斎藤仁さんのこと』 山下泰裕編 (2020/09/16)
- 『ノムさんへの手紙』 週刊ベースボール編 (2020/08/09)
- 『こういう写真ってどう撮るの?』 森下えみこ (2020/06/24)