『北里柴三郎 ドンネルの男』 山崎光夫
たしかに、北里柴三郎の伝記は、大人になってからは読んでない気がする。
子ども向けのものしかなかったんだそうだ。それが、この本の著者である山崎光夫さんが、北里柴三郎のもとで経理を担当し、秘書を務めた田畑重明が、日常を克明に記した日誌を入手したんだそうだ。それを機として、この本が生まれたようだ。
私も子どもの時分に、子ども向けに書かれた、北里柴三郎の伝記を読んだ。この本にも登場してくる野口英世の伝記も読んだ。日本の偉人たちの伝記は、子どもの時分に、子ども向けの伝記であらかた読んだ。海外の偉人の伝記も含めて。
その子ども向けの伝記の先は、中学校以降の歴史の授業になってしまって、教科書に名前が登場する程度で終わってしまう。その偉人の生涯について、子ども向けのもの以上に掘り下げたものが、どうもないようだ。大河ドラマで取り上げられるような、歴史の変わり目の武将たちの話を除いてはね。
とくに文人に関しては、子ども向けのものさえおぼつかない。
だから、自分から求めて、情報を引き出さなきゃならない。北里柴三郎の情報をどうやって引き出したものか、良く覚えていないけど、歴史の教師をしている頃は、年に一度は彼の話を持ち出した。
世界史ならば、ペスト大流行に絡めて、日本史ならば、明治期の日本人の活躍として。
その話の中でも、北里柴三郎が第一回ノーベル医学・生理学賞の候補に選ばれながら、受賞できなかったことを、生徒に伝えた。
当時、北里柴三郎はドイツのベルリンで、師であるロベルト・コッホの支持で、エミール・フォン・ベーリングと共同研究をしていた。北里柴三郎は、破傷風に関わる研究で成果を出していた。それは破傷風免疫動物の血清のなかには、破傷風の毒素に対抗してこれを無毒化する物質があることを確かめたことだった。当時、柴三郎はそれを「抗毒素」と呼んだが、今は「抗体」と呼ばれている。
まさに、免疫血清療法の基礎を呈示する、すぐれた研究成果だった。
そこで、師のコッホは、当時、多くの人を絶望の淵に追い込んでいたジフテリアの研究を進めるベーリングと柴三郎を組ませた。ジフテリアに対して柴三郎の研究成果を応用するというのが、コッホの指示であった。二人の研究は、免疫血清療法の夜明けを告げる画期的な成果となって表れた。


1901(明治34)年、「血清療法の研究、特にジフテリアに対する応用」を評価され、ベーリングは第一回のノーベル賞医学・生理学賞を受賞した。
この本でも、その時、なぜ北里柴三郎が受賞できなかったかに触れている。ジフテリアが飛沫感染で人から人に移り、その大流行は社会的混乱をもたらし、患者数は破傷風の数百倍に及ぶ。つまり、北里柴三郎の研究テーマであった破傷風よりも、ベーリングの研究テーマであったジフテリアの方が、目立ちやすかった。
この本も、その点を上げている。だけど、評価されているのが、「免疫血清療法」であるからには、北里柴三郎が受賞すべきところであった、あるいは、同時受賞が妥当としている。
「なによりも」と強調しているのは、「有色人種に対する差別意識と、極東の小国に過ぎない日本への軽視」であるとしている。
そう、私が授業で取り上げたのも、それを生徒に伝えるためだった。そんな中で、極めてすぐれた研究成果を残したからこそ、「北里柴三郎はすごい」と、生徒に伝えた。
もう一つは、福沢諭吉のものすごさと、官僚機構のいやらしさだ。
祖国に恩返ししたいと、諸外国からの好条件での招聘を蹴って帰国した北里柴三郎に、官僚機構は力を発揮する場所を与えなかった。それを、福沢諭吉は救った。身銭を切って、さらには生涯を通して築き上げた人間関係をフル回転させて、北里柴三郎を後援した。危機に陥ることがあっても、そのたびに福沢諭吉は北里柴三郎を救った。
北里柴三郎は、福沢諭吉の後援で立ち上げた伝染病研究所での活躍で、明治時代、日本の医学を先頭に立って引っ張りつづけた。
福沢諭吉が亡くなったとき、北里柴三郎は男泣きに泣いたそうだ。
福沢諭吉亡き後、福沢諭吉の彼岸であった慶応義塾大学医学部を立ち上げたのは、北里柴三郎であった。
そんな話を、授業でしてた。
伝染病研究所では、何かと言えば弟子たちを思い切り叱り飛ばすのが、柴三郎の常であったそうだ。「莫迦者!」・・・それを弟子たちは“ドンネル(雷)”と呼んだそうだ。落とされた方は辟易とするしかないが、弟子たちも柴三郎の庇護のもとに自由な研究を行なうことが出来た。なによりも、柴三郎は弟子たちに愛された。柴三郎の研究精神は、確実に弟子たちに受け継がれた。
この本は、2003年に上下二巻で発行されたものを、一冊にまとめて、あらためて発行したものだそうだ。おりしも、武漢発感染症の流行で、世界が揺れている。医療従事者にとっては、その存在が試される時となってしまった。
1894(明治27)年、香港でペストが流行し、日本からも調査隊が送られた。北里柴三郎も調査団に加わり、実際、世界ではじめてペスト菌を確認した。この時、ゴム手袋というものはなかったそうだ。薬品で皮膚に薄い皮膜を作って感染防止としているだけで、実際、生還したものの、調査団の中にもペストに感染して苦しんだものがいたそうだ。
今も奮闘している医療従事者の方、・・・どうも、ありがとう。
子ども向けのものしかなかったんだそうだ。それが、この本の著者である山崎光夫さんが、北里柴三郎のもとで経理を担当し、秘書を務めた田畑重明が、日常を克明に記した日誌を入手したんだそうだ。それを機として、この本が生まれたようだ。
私も子どもの時分に、子ども向けに書かれた、北里柴三郎の伝記を読んだ。この本にも登場してくる野口英世の伝記も読んだ。日本の偉人たちの伝記は、子どもの時分に、子ども向けの伝記であらかた読んだ。海外の偉人の伝記も含めて。
その子ども向けの伝記の先は、中学校以降の歴史の授業になってしまって、教科書に名前が登場する程度で終わってしまう。その偉人の生涯について、子ども向けのもの以上に掘り下げたものが、どうもないようだ。大河ドラマで取り上げられるような、歴史の変わり目の武将たちの話を除いてはね。
とくに文人に関しては、子ども向けのものさえおぼつかない。
だから、自分から求めて、情報を引き出さなきゃならない。北里柴三郎の情報をどうやって引き出したものか、良く覚えていないけど、歴史の教師をしている頃は、年に一度は彼の話を持ち出した。
世界史ならば、ペスト大流行に絡めて、日本史ならば、明治期の日本人の活躍として。
その話の中でも、北里柴三郎が第一回ノーベル医学・生理学賞の候補に選ばれながら、受賞できなかったことを、生徒に伝えた。
当時、北里柴三郎はドイツのベルリンで、師であるロベルト・コッホの支持で、エミール・フォン・ベーリングと共同研究をしていた。北里柴三郎は、破傷風に関わる研究で成果を出していた。それは破傷風免疫動物の血清のなかには、破傷風の毒素に対抗してこれを無毒化する物質があることを確かめたことだった。当時、柴三郎はそれを「抗毒素」と呼んだが、今は「抗体」と呼ばれている。
まさに、免疫血清療法の基礎を呈示する、すぐれた研究成果だった。
そこで、師のコッホは、当時、多くの人を絶望の淵に追い込んでいたジフテリアの研究を進めるベーリングと柴三郎を組ませた。ジフテリアに対して柴三郎の研究成果を応用するというのが、コッホの指示であった。二人の研究は、免疫血清療法の夜明けを告げる画期的な成果となって表れた。
『北里柴三郎 ドンネルの男』 山崎光夫 東洋経済新報社 ¥ 2,420 破傷風菌の純粋培養、ペスト菌の発見、日本近代医学の父・北里柴三郎 |
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1901(明治34)年、「血清療法の研究、特にジフテリアに対する応用」を評価され、ベーリングは第一回のノーベル賞医学・生理学賞を受賞した。
この本でも、その時、なぜ北里柴三郎が受賞できなかったかに触れている。ジフテリアが飛沫感染で人から人に移り、その大流行は社会的混乱をもたらし、患者数は破傷風の数百倍に及ぶ。つまり、北里柴三郎の研究テーマであった破傷風よりも、ベーリングの研究テーマであったジフテリアの方が、目立ちやすかった。
この本も、その点を上げている。だけど、評価されているのが、「免疫血清療法」であるからには、北里柴三郎が受賞すべきところであった、あるいは、同時受賞が妥当としている。
「なによりも」と強調しているのは、「有色人種に対する差別意識と、極東の小国に過ぎない日本への軽視」であるとしている。
そう、私が授業で取り上げたのも、それを生徒に伝えるためだった。そんな中で、極めてすぐれた研究成果を残したからこそ、「北里柴三郎はすごい」と、生徒に伝えた。
もう一つは、福沢諭吉のものすごさと、官僚機構のいやらしさだ。
祖国に恩返ししたいと、諸外国からの好条件での招聘を蹴って帰国した北里柴三郎に、官僚機構は力を発揮する場所を与えなかった。それを、福沢諭吉は救った。身銭を切って、さらには生涯を通して築き上げた人間関係をフル回転させて、北里柴三郎を後援した。危機に陥ることがあっても、そのたびに福沢諭吉は北里柴三郎を救った。
北里柴三郎は、福沢諭吉の後援で立ち上げた伝染病研究所での活躍で、明治時代、日本の医学を先頭に立って引っ張りつづけた。
福沢諭吉が亡くなったとき、北里柴三郎は男泣きに泣いたそうだ。
福沢諭吉亡き後、福沢諭吉の彼岸であった慶応義塾大学医学部を立ち上げたのは、北里柴三郎であった。
そんな話を、授業でしてた。
伝染病研究所では、何かと言えば弟子たちを思い切り叱り飛ばすのが、柴三郎の常であったそうだ。「莫迦者!」・・・それを弟子たちは“ドンネル(雷)”と呼んだそうだ。落とされた方は辟易とするしかないが、弟子たちも柴三郎の庇護のもとに自由な研究を行なうことが出来た。なによりも、柴三郎は弟子たちに愛された。柴三郎の研究精神は、確実に弟子たちに受け継がれた。
この本は、2003年に上下二巻で発行されたものを、一冊にまとめて、あらためて発行したものだそうだ。おりしも、武漢発感染症の流行で、世界が揺れている。医療従事者にとっては、その存在が試される時となってしまった。
1894(明治27)年、香港でペストが流行し、日本からも調査隊が送られた。北里柴三郎も調査団に加わり、実際、世界ではじめてペスト菌を確認した。この時、ゴム手袋というものはなかったそうだ。薬品で皮膚に薄い皮膜を作って感染防止としているだけで、実際、生還したものの、調査団の中にもペストに感染して苦しんだものがいたそうだ。
今も奮闘している医療従事者の方、・・・どうも、ありがとう。
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