義民『治水の名言』 竹林征三
《お手とお足はお江戸に御座る、首は多治井の野沼塚》
大阪府羽曳野市の共同墓地入り口に高さ1.8メートルのお地蔵さんがいらっしゃるそうだ。上の言葉は、そのお地蔵さまの後輩部に刻まれたものだそうだ。・・・いかにも訳ありそうなこの言葉、やはり治水に関するものだそうだ。
野沼某は村人を救うために、御法度の直訴をして首をはねられた。江戸で処刑された野沼某の首を地元に人々がもらい受けて、多治井に首塚を作った。いつの頃からか首塚がなくなり、代わってお地蔵さまが祀られるようになったんだそうだ。
《水を得んと欲すれば、即ち死を免れず、死せずば水を得ず》
「水を求めれば死ぬ、死ななければ水は得られない」とは、これもすごい言葉だ。西宮市の鳴尾にある“義民碑”に刻まれた言葉だそうだ。ある年の大干魃で、隣村と水争いの大乱闘が発生し、関係者51名が大坂で磔刑に処せられて命を落とした。そのうち25人が鳴尾の人々で、この人たちは義民として慰霊されたということだ。
25人は命よりも水を選んだ。
竹林さんの調査では、全国各地に、驚くほど多くの治水に関する義人・義民の話が伝わっているんだそうだ。それらに共通して言えることは、そのほとんどは地元の庄屋などの世話人で、村人からの人望厚い人たちだったと言うこと。
それらの人々は、治水事業の許可を得るべく何度も何度もお上に陳情を繰り返した。そして、ついに許可される見込みがないと観念するや、死を覚悟して堰や樋を無許可で作っている。
その結果、お上の裁きを受け、家族全員が死罪、家財すべて没収という厳しい処分が下される。なお、作った堰や樋等は、役に立つので破壊せず、そのまま据え置くことが許される。
中には、その義民を慰霊することも許されないケースもあったようだ。地元の百姓らが自分たちのために犠牲になった庄屋さんを慰霊供養したくても、墓作ることも、塚を築くことも許されず、一切禁止されてしまう。百姓らは役人の目を逃れ、内密に、隠れて百年、二百年と何代にもわたり慰霊供養を続けてきたケースもあるそうだ。
明治になり、ようやく墓や頌徳碑を建てて慰霊、感謝、報恩の祭を始めているんだそうだ。
私たちが、水道一つひねって水を得られているのも、実は背景に、そういった人々の犠牲があるってことだな。



まったく、なんだって江戸幕府は、そんなえげつないことをしたもんだか。
そう、誰でも思うよね。農民が、死ぬほど水害で困窮してるっていうのに、本来はお上が面倒を見るのが本筋だろうに。それを農村が、自助によって切り抜けようとするのを妨害し、切羽詰まった行いを咎めて処罰するなんてね。ちょっと、あんまり酷すぎる。
実際、水害で困窮して、洪水軽減の治水事業を、命がけ手お上に対し、御法度の駕籠訴をしようが、幕府としては一切受け付けない。実施なんかしない。させない。
なぜか?
どうやら、幕府側にも事情があったようだ。
治水というのは、左岸がよければ右岸が悪くなる。上流がよければ、下流が困る。関係するすべての地域の同意がなければ、幕府といえども動くに動けない。
幕藩体制をとっているだけに、全関係者の同意をとると言うことが、絶対的に難しいわけだな。かりに限定的な合意が取れたとしても、金は出さない。自普請でやらせる。もちろん、責任はそっち持ち。
結局、農民が水害でいくら困ろうが、幕府は一切動かない。
だけど、徳川家康の河川対策はすさまじく、伊那氏に命じて、《利根川東遷、荒川西遷》と呼ばれる事業を行なっている。
この河川の付け替えは、川を使った船による物資輸送を充実させることと、新田開発を目的とするものであった。
川は一番低いところを流れている。それをわざわざ、より高いところに遷すのは、洪水の危険を高めることになる。その危険を高めてまで、低いところを広い新田として開発したかったわけだ。河川をやや高いところに付け替えることで、新しく生まれた新田に用水を自然流下で補給しやすくなる。一番低いところは、さらに幅を大幅に狭めて排水路とする。
洪水被害軽減のための治水とはまったく正反対のことをしておいて、治水には一切責任を負わないというのは、やはり問題がある。
熊沢蕃山は、「諸国の川堤の普請は、飯上の蠅を逐うが如し」と泥縄式の河川行政を非難したそうだけど、同時に、新田開発が進めば、さらに洪水被害が増すと、「新田開発は治水の敵」と、強く反対したそうだ。
八ッ場ダムのことを思い浮かべたし。木を伐採した山の斜面に太陽光パネルが並べられた光景を、思い浮かべてしまった。
大阪府羽曳野市の共同墓地入り口に高さ1.8メートルのお地蔵さんがいらっしゃるそうだ。上の言葉は、そのお地蔵さまの後輩部に刻まれたものだそうだ。・・・いかにも訳ありそうなこの言葉、やはり治水に関するものだそうだ。
野沼某は村人を救うために、御法度の直訴をして首をはねられた。江戸で処刑された野沼某の首を地元に人々がもらい受けて、多治井に首塚を作った。いつの頃からか首塚がなくなり、代わってお地蔵さまが祀られるようになったんだそうだ。
《水を得んと欲すれば、即ち死を免れず、死せずば水を得ず》
「水を求めれば死ぬ、死ななければ水は得られない」とは、これもすごい言葉だ。西宮市の鳴尾にある“義民碑”に刻まれた言葉だそうだ。ある年の大干魃で、隣村と水争いの大乱闘が発生し、関係者51名が大坂で磔刑に処せられて命を落とした。そのうち25人が鳴尾の人々で、この人たちは義民として慰霊されたということだ。
25人は命よりも水を選んだ。
竹林さんの調査では、全国各地に、驚くほど多くの治水に関する義人・義民の話が伝わっているんだそうだ。それらに共通して言えることは、そのほとんどは地元の庄屋などの世話人で、村人からの人望厚い人たちだったと言うこと。
それらの人々は、治水事業の許可を得るべく何度も何度もお上に陳情を繰り返した。そして、ついに許可される見込みがないと観念するや、死を覚悟して堰や樋を無許可で作っている。
その結果、お上の裁きを受け、家族全員が死罪、家財すべて没収という厳しい処分が下される。なお、作った堰や樋等は、役に立つので破壊せず、そのまま据え置くことが許される。
中には、その義民を慰霊することも許されないケースもあったようだ。地元の百姓らが自分たちのために犠牲になった庄屋さんを慰霊供養したくても、墓作ることも、塚を築くことも許されず、一切禁止されてしまう。百姓らは役人の目を逃れ、内密に、隠れて百年、二百年と何代にもわたり慰霊供養を続けてきたケースもあるそうだ。
明治になり、ようやく墓や頌徳碑を建てて慰霊、感謝、報恩の祭を始めているんだそうだ。
私たちが、水道一つひねって水を得られているのも、実は背景に、そういった人々の犠牲があるってことだな。
『治水の名言』 竹林征三 鹿島出版会 ¥ 2,420 水害に苦しむ日本。辛苦から生まれた様々な名言から治水に関する知恵や教訓を学ぶ |
まったく、なんだって江戸幕府は、そんなえげつないことをしたもんだか。
そう、誰でも思うよね。農民が、死ぬほど水害で困窮してるっていうのに、本来はお上が面倒を見るのが本筋だろうに。それを農村が、自助によって切り抜けようとするのを妨害し、切羽詰まった行いを咎めて処罰するなんてね。ちょっと、あんまり酷すぎる。
実際、水害で困窮して、洪水軽減の治水事業を、命がけ手お上に対し、御法度の駕籠訴をしようが、幕府としては一切受け付けない。実施なんかしない。させない。
なぜか?
どうやら、幕府側にも事情があったようだ。
治水というのは、左岸がよければ右岸が悪くなる。上流がよければ、下流が困る。関係するすべての地域の同意がなければ、幕府といえども動くに動けない。
幕藩体制をとっているだけに、全関係者の同意をとると言うことが、絶対的に難しいわけだな。かりに限定的な合意が取れたとしても、金は出さない。自普請でやらせる。もちろん、責任はそっち持ち。
結局、農民が水害でいくら困ろうが、幕府は一切動かない。
だけど、徳川家康の河川対策はすさまじく、伊那氏に命じて、《利根川東遷、荒川西遷》と呼ばれる事業を行なっている。
この河川の付け替えは、川を使った船による物資輸送を充実させることと、新田開発を目的とするものであった。
川は一番低いところを流れている。それをわざわざ、より高いところに遷すのは、洪水の危険を高めることになる。その危険を高めてまで、低いところを広い新田として開発したかったわけだ。河川をやや高いところに付け替えることで、新しく生まれた新田に用水を自然流下で補給しやすくなる。一番低いところは、さらに幅を大幅に狭めて排水路とする。
洪水被害軽減のための治水とはまったく正反対のことをしておいて、治水には一切責任を負わないというのは、やはり問題がある。
熊沢蕃山は、「諸国の川堤の普請は、飯上の蠅を逐うが如し」と泥縄式の河川行政を非難したそうだけど、同時に、新田開発が進めば、さらに洪水被害が増すと、「新田開発は治水の敵」と、強く反対したそうだ。
八ッ場ダムのことを思い浮かべたし。木を伐採した山の斜面に太陽光パネルが並べられた光景を、思い浮かべてしまった。
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