『治水の名言』 竹林征三
江戸時代後期の秋田に渡部斧松という人がいて、治水開拓に、大きな事績を残したという。水路工事の落盤事故で犠牲者を出し、誰もが工事に腰が引けた常態になったとき、斧松は自分の身体に縄を結び、「もし万一のことがあったら、この縄で私を引揚げてくれ」と言い残して土砂崩れと必死に戦い、水路トンネルを完成させたそうだ。
長野県佐久市の五郎兵衛用水は、市川五郎兵衛という武士が自費で築造したものだそうだ。その心意気を知った家康が士官を進めると、「志はすでに武士にあらず、殖産振興、水を引くことである」と言って断わったそうだ。
江戸時代後期の富山県高岡市に沢田清兵衛という人がいて、新田開発や治水に功労があったそうだ。その人の言葉で、川を上流から河口まで通して把握しなければならないとする言葉。「川は水源から河口までの一体の生物である」
家康によって付け替えられた利根川は、昭和22年9月16日のカスリーン台風による大雨で氾濫し、昔の旧利根川に戻ってしまったという。そんなとき、こんな言葉が残された。「河川も生き物で遺伝子をもっている。昔の記憶をたどる」
たびたび水害を起こした熊野川の上流、奈良県十津川村には、こんな言葉が残されているという。「谷の水温はなんぼ大きゅうてもいいが、石が転げる音がしたら、逃げなあかん」
長野県南木曽村には《蛇ぬけの碑》というのがあるそうだ。蛇ぬけとは土石流のことで、「蛇ぬけの前にはきな臭い臭いがする」と警告があるそうだ。
そう言えば、平成26年8月の、広島における豪雨災害で、大きな被害の出た安佐南区の八木地区にも、祖先からの言い伝えで、蛇ぬけの伝承があり、土石流の前には生臭い匂いが漂ったとニュース番組で報道していた。
明治35年に、新潟県妙高市で大きな土石流が起こり、酷い被害が出たそうだ。その時、住民の先頭に立って復興に奮闘したのが丸山善助という人だったそうだ。その方はその後の生涯を、治山治水に捧げたそうだ。その人の言葉。「平野を納めんと欲すれば、山と川を治めよ」
災害からの復興は、人の心を晴れ晴れとさせなければ成し遂げられない。それが、とても大切な治水技術でもあるんだそうだ。江戸時代の八代将軍徳川吉宗の頃、大飢饉や疫病の流行で多くの死者が出たそうだ。隅田川の花火大会は、その死者の霊を弔う川施餓鬼の法会が始まりだそうだ。さらに、その堤に桜の苗を受けたのが、隅田川の花見の始まりになるそうだ。
大相撲は、明暦の大火や安政地震で多くの人が犠牲になったとき、その供養のために回向院が作られ、経大で勧進相撲が興行されたのが始まりだという。
今の、感染症流行に際し、全国各地で花火の自粛、まつりの自粛が相次ぐ中、人の心を晴れ晴れとさせる一工夫というのが、是非欲しいところだな。



治山治水のために、この国土と奮闘してきた先人たちの言葉の、ほんのさわりだけ取り上げてみた。
ついこの間も、日本の近くを台風が通り抜けていった。梅雨のシーズンには、九州、四国、中国地方に、線上降水帯という雲の帯がかかって、同じ場所に何日にもわたってもの凄い雨を降らせる。台風に加えて、それも年中行事のようになっている。
まさに日本は水害大国。先人たちも、ずっと状況と戦ってきた。
日本列島は、4大プレートの継ぎ目にあることから海溝型の巨大地震が発生する。その地震に伴って、巨大津波に襲われる。プレートの継ぎ目には火山帯が配列し、列島の多くで火山災害が発生する。
また、大陸型の気流と海洋型の気流がぶつかる位置にあり、そこに南北に長い脊梁山脈があるため、積乱雲が発生し豪雨災害を起こしやすい。日本海側は世界指折りの豪雪地帯である。毎年、いくつかの台風が列島に上陸、または近くを通過する、台風の通り道に当たる。
国土の70パーセントが山地で、人が住みやすい平地は10パーセントしかない。そこに50パーセントの人々がひしめくように生活する。しかし、10パーセントの平地は、もともと河川の氾濫原野で、反乱が作り出した平地である。
平野部を流れる河川は天井川になっており、氾濫時の水位は、人々の居住地よりもはるかに高く、昨年の台風19号の時の氾濫でも、二階まで氾濫の濁流が浸水した家屋も少なくない。
浸水は日本の平地の宿命である。日本の河川はいずれも急流で短いため、降った雨は一気に海へ流れ下る。雨が降らなければ水不足となる。平地をのぞく国土の大半は山岳地帯の斜面であり、残る50パーセントの人々は、そこにわずかな平地を見つけて居住する。しかしそこには、豪雨による山地崩壊の危険がつきまとう。
そんなところに、私たちは住んでいる。
「天災は忘れた頃にやってくる」とは、寺田寅彦の言葉だという。・・・一説にはね。
だけど、最近の天災は、忘れないうちにやってきている。昨年の苦い経験を、今年の災害シーズンに生かそうとしている。じゃあ、寺田寅彦の頃は、忘れた頃にやってきていたのかというと、案外そうでもない。そうでもないけど、情報が日本列島全体で共有されていなかったに過ぎないんじゃないかな。
さらに、明治11年生まれで昭和10年になくなるから、いくたの戦争を経験しているはずだ。戦争と災害で、日本人はなんども酷い被害に遭っている。
天災と戦争のことをよく知ることは、日本人にとって、とっても大事なことのはずなのに、私たちはそれを知らなすぎるんじゃないか。天災について、しっかり知る努力は、最近行なわれるようになった。じゃあ、もう一つの酷い被害を生み出している戦争についてはどうか。
まったく何もない。
長野県佐久市の五郎兵衛用水は、市川五郎兵衛という武士が自費で築造したものだそうだ。その心意気を知った家康が士官を進めると、「志はすでに武士にあらず、殖産振興、水を引くことである」と言って断わったそうだ。
江戸時代後期の富山県高岡市に沢田清兵衛という人がいて、新田開発や治水に功労があったそうだ。その人の言葉で、川を上流から河口まで通して把握しなければならないとする言葉。「川は水源から河口までの一体の生物である」
家康によって付け替えられた利根川は、昭和22年9月16日のカスリーン台風による大雨で氾濫し、昔の旧利根川に戻ってしまったという。そんなとき、こんな言葉が残された。「河川も生き物で遺伝子をもっている。昔の記憶をたどる」
たびたび水害を起こした熊野川の上流、奈良県十津川村には、こんな言葉が残されているという。「谷の水温はなんぼ大きゅうてもいいが、石が転げる音がしたら、逃げなあかん」
長野県南木曽村には《蛇ぬけの碑》というのがあるそうだ。蛇ぬけとは土石流のことで、「蛇ぬけの前にはきな臭い臭いがする」と警告があるそうだ。
そう言えば、平成26年8月の、広島における豪雨災害で、大きな被害の出た安佐南区の八木地区にも、祖先からの言い伝えで、蛇ぬけの伝承があり、土石流の前には生臭い匂いが漂ったとニュース番組で報道していた。
明治35年に、新潟県妙高市で大きな土石流が起こり、酷い被害が出たそうだ。その時、住民の先頭に立って復興に奮闘したのが丸山善助という人だったそうだ。その方はその後の生涯を、治山治水に捧げたそうだ。その人の言葉。「平野を納めんと欲すれば、山と川を治めよ」
災害からの復興は、人の心を晴れ晴れとさせなければ成し遂げられない。それが、とても大切な治水技術でもあるんだそうだ。江戸時代の八代将軍徳川吉宗の頃、大飢饉や疫病の流行で多くの死者が出たそうだ。隅田川の花火大会は、その死者の霊を弔う川施餓鬼の法会が始まりだそうだ。さらに、その堤に桜の苗を受けたのが、隅田川の花見の始まりになるそうだ。
大相撲は、明暦の大火や安政地震で多くの人が犠牲になったとき、その供養のために回向院が作られ、経大で勧進相撲が興行されたのが始まりだという。
今の、感染症流行に際し、全国各地で花火の自粛、まつりの自粛が相次ぐ中、人の心を晴れ晴れとさせる一工夫というのが、是非欲しいところだな。
『治水の名言』 竹林征三 鹿島出版会 ¥ 2,420 水害に苦しむ日本。辛苦から生まれた様々な名言から治水に関する知恵や教訓を学ぶ |
治山治水のために、この国土と奮闘してきた先人たちの言葉の、ほんのさわりだけ取り上げてみた。
ついこの間も、日本の近くを台風が通り抜けていった。梅雨のシーズンには、九州、四国、中国地方に、線上降水帯という雲の帯がかかって、同じ場所に何日にもわたってもの凄い雨を降らせる。台風に加えて、それも年中行事のようになっている。
まさに日本は水害大国。先人たちも、ずっと状況と戦ってきた。
日本列島は、4大プレートの継ぎ目にあることから海溝型の巨大地震が発生する。その地震に伴って、巨大津波に襲われる。プレートの継ぎ目には火山帯が配列し、列島の多くで火山災害が発生する。
また、大陸型の気流と海洋型の気流がぶつかる位置にあり、そこに南北に長い脊梁山脈があるため、積乱雲が発生し豪雨災害を起こしやすい。日本海側は世界指折りの豪雪地帯である。毎年、いくつかの台風が列島に上陸、または近くを通過する、台風の通り道に当たる。
国土の70パーセントが山地で、人が住みやすい平地は10パーセントしかない。そこに50パーセントの人々がひしめくように生活する。しかし、10パーセントの平地は、もともと河川の氾濫原野で、反乱が作り出した平地である。
平野部を流れる河川は天井川になっており、氾濫時の水位は、人々の居住地よりもはるかに高く、昨年の台風19号の時の氾濫でも、二階まで氾濫の濁流が浸水した家屋も少なくない。
浸水は日本の平地の宿命である。日本の河川はいずれも急流で短いため、降った雨は一気に海へ流れ下る。雨が降らなければ水不足となる。平地をのぞく国土の大半は山岳地帯の斜面であり、残る50パーセントの人々は、そこにわずかな平地を見つけて居住する。しかしそこには、豪雨による山地崩壊の危険がつきまとう。
そんなところに、私たちは住んでいる。
「天災は忘れた頃にやってくる」とは、寺田寅彦の言葉だという。・・・一説にはね。
だけど、最近の天災は、忘れないうちにやってきている。昨年の苦い経験を、今年の災害シーズンに生かそうとしている。じゃあ、寺田寅彦の頃は、忘れた頃にやってきていたのかというと、案外そうでもない。そうでもないけど、情報が日本列島全体で共有されていなかったに過ぎないんじゃないかな。
さらに、明治11年生まれで昭和10年になくなるから、いくたの戦争を経験しているはずだ。戦争と災害で、日本人はなんども酷い被害に遭っている。
天災と戦争のことをよく知ることは、日本人にとって、とっても大事なことのはずなのに、私たちはそれを知らなすぎるんじゃないか。天災について、しっかり知る努力は、最近行なわれるようになった。じゃあ、もう一つの酷い被害を生み出している戦争についてはどうか。
まったく何もない。
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