『日本人なら知っておきたい仏教』 武光誠
いろいろな釈迦如来像があるけど、本当にお釈迦さまに似ていたものはあるのかな。
仏像が彫られるようになるのはクシャーナ朝の時代だから、紀元後の話。お釈迦さまが生きていた頃からすれば、500年以上後の時代。ガンダーラはカイバル峠の外側、今で言えばアフガニスタンで、お釈迦さまの活動領域からは遠く離れたばしょである。
しかも、アレクサンダー大王の東征の時、インド北西部までやってきたギリシャ人の持っていた彫刻文化が仏教思想と融合したのがガンダーラ美術。仏像はどこか古代ギリシャの神像に似て、スッと鼻筋が通っているものが多い。
そういうことになると、似ても似つかない顔かともおもうけど、クシャトリア階級のガウタマ・シッダールタ王子だから、アーリア人としてインドに侵入した外来侵略民族。それこそカイバル峠の外からやってきた、根っ子では古代ギリシャ人ともつながる白人種。
ゼウスはギリシャ神話の最高神と言われる神であるが、雷をシンボルとし、武器とする神であった。そう言えば、インドに侵入したアーリア人たちの持ち込んだバラモン教。その最高神ともされるのはインドラ神。インドラもゼウスと同じく雷の神さま。なんだか、ギリシャとインドのアーリア人っていうのは、共通項が多いようだ。
それを考えれば、お釈迦さまをモデルにしたわけではないが、なんとなく似ていてもおかしくないってところだろうか。
この本は、ガウタマ・シッダールタ王子に端を発する仏教という宗教が、本来、どのような宗教であって、どのように発展し、どのように移り変わっていったか。そして、それが広まっていく過程で、各地域地域の土着の信仰や文化と融合し、どのように変化していったか。さらには、どのようにして日本にたどり着いたか。日本にたどり着いた仏教は、どのような宗教になっていたかを、全般を網羅するように、的確に一冊にまとめた本と、そう言えばいいかな。
「日本人なら知っておきたい」なんて言われると、なんだか嫌らしいな。武光誠さんは、同じKAWADE夢新書から『日本人なら知っておきたい神道』という本も出している。だけど、仏教という宗教、神道という宗教を知っていれば、日本人の信仰心が分かるというものでもない。
仏教だけでも、神道だけでも表しきれない、日本人的信仰心、“日本教”と呼ぶ人もいるけど、本当ならば、日本人ならその日本人的信仰心をこそ知っておきたいもんだと思う。
武光誠さんには、次は是非それを書いて欲しいと思う。
この本を買った理由は、仏教が変遷していく前の、お釈迦さまが説いた教えを振り返っておきたいっていうところにあった。


たとえば、インドにはベジタリアンが多いそうだ。お釈迦さまが仏教の布教を始めたのと同じ頃に成立したジャイナ教の信者は、今でも厳密な不殺生を守っているという。不殺生こそがジャイナ教の重要な教義だったからね。
だけど、お釈迦さまの教えには、肉食の禁止はないんだそうだ。出家者に信者から布施された食べ物は、すべてありがたくいただくようにと言うのがお釈迦さまの教えで、それが肉料理であっても断わってはいけないというものだった。
インドの全体的な道徳観に不殺生があり、徐々に仏教にも取り入れられ、大乗仏教が成立したときに、それが戒律となったようだ。お釈迦さまの大らかさを離れて、窮屈になってしまったわけだな。
お釈迦さまの教えは、本来、難しい教義ではなく、誰にでも受け入れられる理解しやすいものであった。
花は散り、若者は老い、やがて亡くなる。すべてのものはうつろいゆく運命にある。その運命を背負って私たちはどう生きるべきか。偏った考えを捨てて、ほどほどの道を生きるべきだ。無常を知り、中道をの生き方を志すものは、人に楽しみを施し、苦しみを取り除く、慈悲の心を持って生きることを心がければいい。
おそらく、仏教教義の中枢って、それだけだと思う。
ただ、自分が中道の生き方が出来ているのかどうかというのは、難しい。常に自分を振り返り、あるいは外から自分を見つめるようにして、その生き方を修正していかなければならない。
それは、人から、「それでいいよ」って言われるものではないんだな。常に、自分で自分を律しなければならない。
そう言えば、お釈迦さまの言葉の中に、「犀の角のようにただ一人歩め」というのがある。中道を外れた生き方をせず、迷いなく歩めるようになるまで、結局、孤独に一人で精進していかなければならないわけだな。
お釈迦さまが亡くなるとき、弟子たちに残した言葉が、「修行者たちよ、お別れを告げる。諸行は無常である。怠りなく努力せよ」というものであったそうだ。「犀の角のようにただ一人歩め」という言葉に、どこかで通じているようだ。
お釈迦さまが亡くなったあと、お釈迦さまの教えをできるだけ性格に後世に残そうと、なんどか仏典結集が行なわれた。だけど、もともとお釈迦さまは、弟子たちに自分の考えを押しつけず、自ら考え、修行することを大事にしていたそうだ。初期の教団には、そのようなお釈迦さまの考えに基づいた、多様な考えを許容する自由な性格があったそうだ。
無常、中道、慈悲といった肝心な点を外すことがなければ、自分に合った修行のやり方で、悟りをめざせばいいという大らかさが、お釈迦さまにはあったに違いない。
やはり宗教には、その大らかさがなければならない。大らかさに欠けた宗教は、人を不幸にするばかりにしか思えない。
仏像が彫られるようになるのはクシャーナ朝の時代だから、紀元後の話。お釈迦さまが生きていた頃からすれば、500年以上後の時代。ガンダーラはカイバル峠の外側、今で言えばアフガニスタンで、お釈迦さまの活動領域からは遠く離れたばしょである。
しかも、アレクサンダー大王の東征の時、インド北西部までやってきたギリシャ人の持っていた彫刻文化が仏教思想と融合したのがガンダーラ美術。仏像はどこか古代ギリシャの神像に似て、スッと鼻筋が通っているものが多い。
そういうことになると、似ても似つかない顔かともおもうけど、クシャトリア階級のガウタマ・シッダールタ王子だから、アーリア人としてインドに侵入した外来侵略民族。それこそカイバル峠の外からやってきた、根っ子では古代ギリシャ人ともつながる白人種。
ゼウスはギリシャ神話の最高神と言われる神であるが、雷をシンボルとし、武器とする神であった。そう言えば、インドに侵入したアーリア人たちの持ち込んだバラモン教。その最高神ともされるのはインドラ神。インドラもゼウスと同じく雷の神さま。なんだか、ギリシャとインドのアーリア人っていうのは、共通項が多いようだ。
それを考えれば、お釈迦さまをモデルにしたわけではないが、なんとなく似ていてもおかしくないってところだろうか。
この本は、ガウタマ・シッダールタ王子に端を発する仏教という宗教が、本来、どのような宗教であって、どのように発展し、どのように移り変わっていったか。そして、それが広まっていく過程で、各地域地域の土着の信仰や文化と融合し、どのように変化していったか。さらには、どのようにして日本にたどり着いたか。日本にたどり着いた仏教は、どのような宗教になっていたかを、全般を網羅するように、的確に一冊にまとめた本と、そう言えばいいかな。
「日本人なら知っておきたい」なんて言われると、なんだか嫌らしいな。武光誠さんは、同じKAWADE夢新書から『日本人なら知っておきたい神道』という本も出している。だけど、仏教という宗教、神道という宗教を知っていれば、日本人の信仰心が分かるというものでもない。
仏教だけでも、神道だけでも表しきれない、日本人的信仰心、“日本教”と呼ぶ人もいるけど、本当ならば、日本人ならその日本人的信仰心をこそ知っておきたいもんだと思う。
武光誠さんには、次は是非それを書いて欲しいと思う。
この本を買った理由は、仏教が変遷していく前の、お釈迦さまが説いた教えを振り返っておきたいっていうところにあった。
『日本人なら知っておきたい仏教』 武光誠 KAWADE夢新書 ¥ 968 私たちの生活に深く根付いている仏教 無常・中道・慈悲という道標 |
たとえば、インドにはベジタリアンが多いそうだ。お釈迦さまが仏教の布教を始めたのと同じ頃に成立したジャイナ教の信者は、今でも厳密な不殺生を守っているという。不殺生こそがジャイナ教の重要な教義だったからね。
だけど、お釈迦さまの教えには、肉食の禁止はないんだそうだ。出家者に信者から布施された食べ物は、すべてありがたくいただくようにと言うのがお釈迦さまの教えで、それが肉料理であっても断わってはいけないというものだった。
インドの全体的な道徳観に不殺生があり、徐々に仏教にも取り入れられ、大乗仏教が成立したときに、それが戒律となったようだ。お釈迦さまの大らかさを離れて、窮屈になってしまったわけだな。
お釈迦さまの教えは、本来、難しい教義ではなく、誰にでも受け入れられる理解しやすいものであった。
花は散り、若者は老い、やがて亡くなる。すべてのものはうつろいゆく運命にある。その運命を背負って私たちはどう生きるべきか。偏った考えを捨てて、ほどほどの道を生きるべきだ。無常を知り、中道をの生き方を志すものは、人に楽しみを施し、苦しみを取り除く、慈悲の心を持って生きることを心がければいい。
おそらく、仏教教義の中枢って、それだけだと思う。
ただ、自分が中道の生き方が出来ているのかどうかというのは、難しい。常に自分を振り返り、あるいは外から自分を見つめるようにして、その生き方を修正していかなければならない。
それは、人から、「それでいいよ」って言われるものではないんだな。常に、自分で自分を律しなければならない。
そう言えば、お釈迦さまの言葉の中に、「犀の角のようにただ一人歩め」というのがある。中道を外れた生き方をせず、迷いなく歩めるようになるまで、結局、孤独に一人で精進していかなければならないわけだな。
お釈迦さまが亡くなるとき、弟子たちに残した言葉が、「修行者たちよ、お別れを告げる。諸行は無常である。怠りなく努力せよ」というものであったそうだ。「犀の角のようにただ一人歩め」という言葉に、どこかで通じているようだ。
お釈迦さまが亡くなったあと、お釈迦さまの教えをできるだけ性格に後世に残そうと、なんどか仏典結集が行なわれた。だけど、もともとお釈迦さまは、弟子たちに自分の考えを押しつけず、自ら考え、修行することを大事にしていたそうだ。初期の教団には、そのようなお釈迦さまの考えに基づいた、多様な考えを許容する自由な性格があったそうだ。
無常、中道、慈悲といった肝心な点を外すことがなければ、自分に合った修行のやり方で、悟りをめざせばいいという大らかさが、お釈迦さまにはあったに違いない。
やはり宗教には、その大らかさがなければならない。大らかさに欠けた宗教は、人を不幸にするばかりにしか思えない。
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