『キリスト教から読みとける世界史』 内藤博文
国会議員で議員辞職するやつが出たらさ。その分の議員を補うのをやめて、議員定数を削っていくっていうの、どうかな。議員どうしで助け合うようになったりしてね。
以前読んだ本で、ローマ教会が“平和”を定義していることを知った。
それは、ローマ教会が1965年の第2バチカン公会議で採択した《現代世界憲章》の一節で、ローマ教会による平和の定義と考えて良いものだそうだ。以下のようなものである。
『平和とは、人間社会の創立者である神に寄って社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である。』
どうやらそれは、すでに神によって、人間社会に刻み込まれているんだそうだ。しかし、不完全な人間には、社会に刻まれているはずの平和の完全な姿を、社会に実現することは出来ない。だからこそ、常に追い求めなければならないものだと言うことのようだ。
それは、ほとんど、プラトンのイデアだな。
完全無欠の創造主という想定を、なんかの理由で受け入れてしまった人間は、その代理人が、いかに無理難題をふっかけてこようと、決してそれを拒否することは出来ない。
エピクロス派が笑い飛ばした天地創造を、処女懐胎を、イエスの復活を、最後の審判を受け入れてしまった以上、それを上回る無理難題は、もはや地球上には存在しない。そうなるともはや、平静な心を“快楽”として追い求めたエピクロス派を、肉体的な快楽を追い求める怠惰な快楽主義者と貶めた、ローマ教会の側に立つしかなくなる。
いったい何でこんなことになってしまったのか。
その理由は、ローマ帝国の混乱であった。キリスト教がローマ帝国亡いに浸透していくのは3世紀のことであった。紀元前8世紀に源を求めることが出来るローマは共和政体で力をつけ、拡大し、拡大したがゆえに共和政体では維持出来なくなっていた。しばらくの混乱の後、紀元前1世紀にカエサルというカリスマの登場をきっかけに、ローマは帝政に移行する。
皇帝の、突出した力による支配が、ヨーロッパからアフリカ、アジアにまで拡大したローマを、安定に導いた。ローマ皇帝は、軍事指揮官として力を発揮し、民衆に「パンとサーカス」という食料と娯楽を、つまり充実した人生をもたらした。皇帝は、民衆にとって、人生の喜びを約束する存在であった。


私は歴史オタクで、すでに中学校の頃、帝政ローマ期の“五賢帝”を、すでに暗唱していた。“ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アントニウス・アウレリウス”と念仏のように唱えて、ニヤッとしていた。
その五賢帝”最後の皇帝、マルクス・アントニウス・アウレリウスのあと、コモンドゥスが即位した180年頃から、すでにローマの不安定化は始まっている。
すでにハドリアヌスの頃から酷くなりつつあった北方ゲルマン民族の侵入は、もはや押しとどめようもなくなり、アジア方面でもパルチアやササン朝ペルシャとの国境紛争も激化していた。敗戦は皇帝の権威を失墜させた。およそ100年後、ディオクレティアヌスが即位して一時的に混乱を収束させるまでに、28名のローマ皇帝が入れ替わった。
次第に、キリスト教は、人々に人生の喜びを提供する存在ではなくなっていったのだ。それに入れ替わるように、キリスト教が人々の心を支え始めた。
キリスト教は、イエスの復活を信じるものは救われるという、パウロが広めた教えだが、精神的な支えになったのは、イエスの生涯であった。イエスは常に、弱き者、貧しき者、小さき者の立場にたった。ローマに浸透していったキリスト教も、貧しい者や女性をいたわり、病人を看護し、死者を手厚く葬った。
3世紀、外から持ち込まれたマラリアをはじめとする病が、ローマの人々を苦しめた。キリスト教は、病人の治療に当たり、路上に放置され、誰も近づきたがらない遺体を手厚く葬ったのだ。次第にローマ人も、そんなキリスト教を受け入れ、逆に神を信じなければ天罰が当たると、恐れもした。
ローマ教会の権威が確立向かうのは10世紀以降である。実はそれにはわけがある。
この時期、実はローマ教皇は、大きな力を持ったドイツのオットー大帝の風下に立たされた。ヨーロッパはヴァイキングの襲来で、恐怖のどん底に陥れられた。その恐怖が、キリスト教信仰を深化させていった。
ヨハネの黙示録には、イエスの処刑後1000年間はイエスと聖人の時代であり、その後、サタンが獄から解放され、天から火が降ってくると預言されていた。全てが焼き尽くされた後に、最後の審判が待っている。
ヴァイキングの襲来は、まさにサタンの時代の到来ととらえられた。
あれ?
釈迦の入滅ののち、正法、像法の時代を経て、仏の教えが衰退する末法の時代を迎え、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまで続く。
やはり、ヘレニズムで古代の思想はシャッフルされている。
以前読んだ本で、ローマ教会が“平和”を定義していることを知った。
それは、ローマ教会が1965年の第2バチカン公会議で採択した《現代世界憲章》の一節で、ローマ教会による平和の定義と考えて良いものだそうだ。以下のようなものである。
『平和とは、人間社会の創立者である神に寄って社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である。』
どうやらそれは、すでに神によって、人間社会に刻み込まれているんだそうだ。しかし、不完全な人間には、社会に刻まれているはずの平和の完全な姿を、社会に実現することは出来ない。だからこそ、常に追い求めなければならないものだと言うことのようだ。
それは、ほとんど、プラトンのイデアだな。
完全無欠の創造主という想定を、なんかの理由で受け入れてしまった人間は、その代理人が、いかに無理難題をふっかけてこようと、決してそれを拒否することは出来ない。
エピクロス派が笑い飛ばした天地創造を、処女懐胎を、イエスの復活を、最後の審判を受け入れてしまった以上、それを上回る無理難題は、もはや地球上には存在しない。そうなるともはや、平静な心を“快楽”として追い求めたエピクロス派を、肉体的な快楽を追い求める怠惰な快楽主義者と貶めた、ローマ教会の側に立つしかなくなる。
いったい何でこんなことになってしまったのか。
その理由は、ローマ帝国の混乱であった。キリスト教がローマ帝国亡いに浸透していくのは3世紀のことであった。紀元前8世紀に源を求めることが出来るローマは共和政体で力をつけ、拡大し、拡大したがゆえに共和政体では維持出来なくなっていた。しばらくの混乱の後、紀元前1世紀にカエサルというカリスマの登場をきっかけに、ローマは帝政に移行する。
皇帝の、突出した力による支配が、ヨーロッパからアフリカ、アジアにまで拡大したローマを、安定に導いた。ローマ皇帝は、軍事指揮官として力を発揮し、民衆に「パンとサーカス」という食料と娯楽を、つまり充実した人生をもたらした。皇帝は、民衆にとって、人生の喜びを約束する存在であった。
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私は歴史オタクで、すでに中学校の頃、帝政ローマ期の“五賢帝”を、すでに暗唱していた。“ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アントニウス・アウレリウス”と念仏のように唱えて、ニヤッとしていた。
その五賢帝”最後の皇帝、マルクス・アントニウス・アウレリウスのあと、コモンドゥスが即位した180年頃から、すでにローマの不安定化は始まっている。
すでにハドリアヌスの頃から酷くなりつつあった北方ゲルマン民族の侵入は、もはや押しとどめようもなくなり、アジア方面でもパルチアやササン朝ペルシャとの国境紛争も激化していた。敗戦は皇帝の権威を失墜させた。およそ100年後、ディオクレティアヌスが即位して一時的に混乱を収束させるまでに、28名のローマ皇帝が入れ替わった。
次第に、キリスト教は、人々に人生の喜びを提供する存在ではなくなっていったのだ。それに入れ替わるように、キリスト教が人々の心を支え始めた。
キリスト教は、イエスの復活を信じるものは救われるという、パウロが広めた教えだが、精神的な支えになったのは、イエスの生涯であった。イエスは常に、弱き者、貧しき者、小さき者の立場にたった。ローマに浸透していったキリスト教も、貧しい者や女性をいたわり、病人を看護し、死者を手厚く葬った。
3世紀、外から持ち込まれたマラリアをはじめとする病が、ローマの人々を苦しめた。キリスト教は、病人の治療に当たり、路上に放置され、誰も近づきたがらない遺体を手厚く葬ったのだ。次第にローマ人も、そんなキリスト教を受け入れ、逆に神を信じなければ天罰が当たると、恐れもした。
ローマ教会の権威が確立向かうのは10世紀以降である。実はそれにはわけがある。
この時期、実はローマ教皇は、大きな力を持ったドイツのオットー大帝の風下に立たされた。ヨーロッパはヴァイキングの襲来で、恐怖のどん底に陥れられた。その恐怖が、キリスト教信仰を深化させていった。
ヨハネの黙示録には、イエスの処刑後1000年間はイエスと聖人の時代であり、その後、サタンが獄から解放され、天から火が降ってくると預言されていた。全てが焼き尽くされた後に、最後の審判が待っている。
ヴァイキングの襲来は、まさにサタンの時代の到来ととらえられた。
あれ?
釈迦の入滅ののち、正法、像法の時代を経て、仏の教えが衰退する末法の時代を迎え、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまで続く。
やはり、ヘレニズムで古代の思想はシャッフルされている。
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