『太平洋戦争の名将たち』 歴史街道編集部編
イギリスの海軍提督を務めたホレ-ショ・ネルソン。
21歳に満たずに艦長となり、戦死した47歳の時の戦いが、あのトラファルガー海戦であったそうだ。あまたの海戦で赫々たる戦果を上げ、その過程で隻腕・隻眼となる大けがもした。彼が戦死する3週間前、最後の誕生日に指揮下の艦長たちを集めてこう訓示したそうだ。
「旗艦が見えず戦闘の処置に困ったときは、敵艦に横付けして死闘を行なえ。それが私の意図に合致している」
ハワイ作戦が承認された昭和16(1941)年10月末、士官たちを集めて以下のような訓示をした男がいる。
「時局は重大な転機を迎えている。10年兵を養うのは一にその日のためである。緊褌一番、実力の涵養に務めよ。戦場においては混戦となり、信号の届かない場合もあろう。その時は躊躇なく敵に向かってもう進撃すべし。それが司令官の意図に沿うものである」
この訓示をしたのは、空母飛龍に登場する第二航空戦隊の司令官であった山口多聞である。彼が、ネルソン精神の継承者であったことが分かる。
ちなみに、“多聞”という名は、楠木正成の幼名多聞丸から採ったものだそうだ。効果的な作戦を意見具申するものの、無能な建武朝廷から却下され、数万の足利高氏の軍勢に、700の手勢で立ち向かって自刃した男の死に様も、彼には特別のものではなかった。
だけど、山口多聞の生き様、死に様に強く感化されて、“何が何でも”の思いで日本を守ろうと、自分の命を省みなかった下士官や一兵卒は数限りなくいた。
私はだから、全体が官僚化した軍という組織が許せない。
海軍兵学校というのは、難関中の難関だったという。だから、そこに入学を許された者たちは、エリート中のエリートということになる。さらには、そこでの席次が、そのまま海軍の中での席次につながっていった。つまり、海軍兵学校を優秀な成績で卒業した者たちが、アメリカとの戦争の時に、指導的な立場にあった。
ハワイ作戦において、小さな勝利に満足して、ハワイ作戦の本来の目的を達成できないまま引き上げを決定した南雲忠一司令官もそう。優秀な人だったんだろうが、戦う気迫の欠けていた。山本五十六連合艦隊司令長官は、情と年功序列の原則を重んじる海軍という“お役所”の中で、名によりも勝つための軍の運用が出来なかった。
官僚化、お役所化していたと言うことにおいては、陸軍においても、大きな違いはない。


第一章の山本五十六を除く、山口多聞、角田覚治、中川州男、栗林忠道、今村均は、そんな官僚化、お役所化といった現象からは、無縁の人たちだった。
角田覚治は、ミッドウェー海戦以降、日本機動部隊の最後の勝利となる南太平洋海戦を指揮した。この時戦った第三艦隊は、司令長官には南雲忠一が就任していた。しかし、旗艦翔鶴がホーネット攻撃隊に襲われて、飛行甲板が使用不能となった。翔鶴の戦線離脱にともない、角田が機動部隊の指揮を任されたのだ。
角田の戦いは、壮烈な反復攻撃で、叩けるだけ敵を叩くと言うことに尽きた。この戦法で、敵に甚大な損害を与えたが、味方にも大きな被害があった。その被害を、角田は兵らに強いた。戦争だから、勝たなければならなかった。
中川州男、栗林忠道は、米軍に対してみれば圧倒的に小さな戦力で、いかに相手に大きな被害を考え抜いた作戦を採った。当然ながら、多くの兵士を死地に送り込むことになった。兵士たちは飢餓に苦しみながら、もがくようにして死んでいった。
中川州男がペリリュー島、栗林忠道は硫黄島。
その戦いは、終戦の様子を大きく変えたと、私は思う。だけど、どちらも万を超える日本兵が死んでいる。なぜそんなことになったのか。そこのところを、その本当のところを、本気で研究していかないと、日本はどうにもならない。『それでも日本人は戦争を選んだ』だけで済まされたんじゃ、たまったもんじゃない。
修正すべきものは、修正するのが当たり前。
なかでも、今村均という人は面白い。今村均のあり方を考えると、当時の陸軍に、根本的に足りないものが見えてくるような気がする。
あれだけの敗戦だ。その戦の中の名将を顧みることに、どれだけの意味があるだろうか。名将を挙げることにより、あまたの愚将の、さらには愚かな軍の責任を明らかにしていくことにつながらなければ、何の意味もない。
戦争だから、勝たなければ意味がない。名将は、兵士たちの戦意を鼓舞し、どれだけ勇猛に死地に向かわせたかを言う。それだけに戦闘を離れれば、一番に兵を大事にする人であったはず。あの戦争を振り返ると、そうでない愚将があまりにも多すぎる。名将はさておいて、今度は『愚将列伝』を企画してみたらどうだろう。
21歳に満たずに艦長となり、戦死した47歳の時の戦いが、あのトラファルガー海戦であったそうだ。あまたの海戦で赫々たる戦果を上げ、その過程で隻腕・隻眼となる大けがもした。彼が戦死する3週間前、最後の誕生日に指揮下の艦長たちを集めてこう訓示したそうだ。
「旗艦が見えず戦闘の処置に困ったときは、敵艦に横付けして死闘を行なえ。それが私の意図に合致している」
ハワイ作戦が承認された昭和16(1941)年10月末、士官たちを集めて以下のような訓示をした男がいる。
「時局は重大な転機を迎えている。10年兵を養うのは一にその日のためである。緊褌一番、実力の涵養に務めよ。戦場においては混戦となり、信号の届かない場合もあろう。その時は躊躇なく敵に向かってもう進撃すべし。それが司令官の意図に沿うものである」
この訓示をしたのは、空母飛龍に登場する第二航空戦隊の司令官であった山口多聞である。彼が、ネルソン精神の継承者であったことが分かる。
ちなみに、“多聞”という名は、楠木正成の幼名多聞丸から採ったものだそうだ。効果的な作戦を意見具申するものの、無能な建武朝廷から却下され、数万の足利高氏の軍勢に、700の手勢で立ち向かって自刃した男の死に様も、彼には特別のものではなかった。
だけど、山口多聞の生き様、死に様に強く感化されて、“何が何でも”の思いで日本を守ろうと、自分の命を省みなかった下士官や一兵卒は数限りなくいた。
私はだから、全体が官僚化した軍という組織が許せない。
海軍兵学校というのは、難関中の難関だったという。だから、そこに入学を許された者たちは、エリート中のエリートということになる。さらには、そこでの席次が、そのまま海軍の中での席次につながっていった。つまり、海軍兵学校を優秀な成績で卒業した者たちが、アメリカとの戦争の時に、指導的な立場にあった。
ハワイ作戦において、小さな勝利に満足して、ハワイ作戦の本来の目的を達成できないまま引き上げを決定した南雲忠一司令官もそう。優秀な人だったんだろうが、戦う気迫の欠けていた。山本五十六連合艦隊司令長官は、情と年功序列の原則を重んじる海軍という“お役所”の中で、名によりも勝つための軍の運用が出来なかった。
官僚化、お役所化していたと言うことにおいては、陸軍においても、大きな違いはない。
『太平洋戦争の名将たち』 歴史街道編集部編 PHP新書 ¥ 968 父祖たちが残した激闘の軌跡から、現代の我々が受け取るべきものとは。 |
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第一章の山本五十六を除く、山口多聞、角田覚治、中川州男、栗林忠道、今村均は、そんな官僚化、お役所化といった現象からは、無縁の人たちだった。
角田覚治は、ミッドウェー海戦以降、日本機動部隊の最後の勝利となる南太平洋海戦を指揮した。この時戦った第三艦隊は、司令長官には南雲忠一が就任していた。しかし、旗艦翔鶴がホーネット攻撃隊に襲われて、飛行甲板が使用不能となった。翔鶴の戦線離脱にともない、角田が機動部隊の指揮を任されたのだ。
角田の戦いは、壮烈な反復攻撃で、叩けるだけ敵を叩くと言うことに尽きた。この戦法で、敵に甚大な損害を与えたが、味方にも大きな被害があった。その被害を、角田は兵らに強いた。戦争だから、勝たなければならなかった。
中川州男、栗林忠道は、米軍に対してみれば圧倒的に小さな戦力で、いかに相手に大きな被害を考え抜いた作戦を採った。当然ながら、多くの兵士を死地に送り込むことになった。兵士たちは飢餓に苦しみながら、もがくようにして死んでいった。
中川州男がペリリュー島、栗林忠道は硫黄島。
その戦いは、終戦の様子を大きく変えたと、私は思う。だけど、どちらも万を超える日本兵が死んでいる。なぜそんなことになったのか。そこのところを、その本当のところを、本気で研究していかないと、日本はどうにもならない。『それでも日本人は戦争を選んだ』だけで済まされたんじゃ、たまったもんじゃない。
修正すべきものは、修正するのが当たり前。
なかでも、今村均という人は面白い。今村均のあり方を考えると、当時の陸軍に、根本的に足りないものが見えてくるような気がする。
あれだけの敗戦だ。その戦の中の名将を顧みることに、どれだけの意味があるだろうか。名将を挙げることにより、あまたの愚将の、さらには愚かな軍の責任を明らかにしていくことにつながらなければ、何の意味もない。
戦争だから、勝たなければ意味がない。名将は、兵士たちの戦意を鼓舞し、どれだけ勇猛に死地に向かわせたかを言う。それだけに戦闘を離れれば、一番に兵を大事にする人であったはず。あの戦争を振り返ると、そうでない愚将があまりにも多すぎる。名将はさておいて、今度は『愚将列伝』を企画してみたらどうだろう。
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