学校『学問』 西部邁
学校は今、おそらく自信を失っている。
知育は、適切な書物があれば、独学でも可能である。学校の教育は、特に知的能力のある子どもにとって、知育を遅らせる原因にすらなりかねない。ただし、それは独学をなす気力がその子に備わっている場合のことで、その気力を養う徳育は、独学だけでは不可能である。
なぜなら、“徳”、つまり「精神の力強さ」は社会関係の中で養われるものであるから、級友の存在が必要となる。また、“徳”は歴史的なものであるのみならず、人格に具体化されるものなので、教師の存在がなければならない。
“徳”とは、葛藤の中で平衡を持す精神の力強さのことだが、その平衡感覚を具体的にどう示すかは、「時と所と場合」による。偉大な先人が、どういう「時と所と場合」において、いかに平衡の気力を発揮したかについて、知育として紹介し解説することは出来る。それは知育であって、徳育ではない。
だったら教師には何が出来るのか。
すぐれた教師は、知育の“教え方”のなかで、自分は道徳を目指しているが、それをまだしっかりと手にしていないということを、児童、生徒、学生たちに伝えることが出来る。彼らがのちに振り返って、学校で何を学んだかを思い出すとき、記憶にもっとも強く残っているのは、教師の“完成をめざす不完全さ”ということであるに違いない。
西部邁さんの言葉である。


私は36年間、高校教師を続けて、定年まで1年残して早期退職をした。最後の1年を我慢しきることは、どうも出来そうもないと考えたからだ。
学生と正面から向き合って、自分をさらけ出し、いまだに道徳にたどり着けない自分が、もがくようにして徳を求めている姿を見せる以外に、学生に前に進むことを促すことは出来ない。
教員生活の半分くらいは、それを、ある程度は出来ていた。しかし、ふと冷静に周囲を見ると、いつの間にか、それが職を賭さなければならないほどの、危険な行為になっていた。
気がついたら、社会が、親が、だけではない。学生がそれを求めていなかった。
西部さんの言うとおり、児童、生徒の徳育にとって決定的なのは、教師の道徳的な資質、さらにはそれを目ざす姿勢もさりながら、教育行政、家族や地域共同体の環境である。学生の徳育にあっては、国家の理念や国策体系に、自分が得た知育がどう貢献できるかという展望が重要である。
今そこにある展望は、それが自分の利益につながるかどうかが関の山。これで若者の、心が共鳴するか。
家族から国家に至る共同体を、特にその道徳的な基盤を荒れるがままに任せているような国民に、教育を論じる資格はないのではないか。
そこまで手厳しい。
最後の数年間に強く感じたのは、家庭環境が大きく変わってしまったこと、文科省が教育をねじったりひねったりで、なにかと仕事がやりづらくなってしまったのはその通りなんだけど、それだけならまだ良かった。
それ以上に唖然とさせられたのは、学生が変わったことだ。周りの環境がここまで変わったのだから、学生が変わってくるのも当然ではある。どう変わったのかと言えば、短絡的になった。10年後、20年後を考えるのではなく、目先のことしか考えなくなった。地道な努力よりも、目に見える成果を求めるようになった。身体を張ろうとすると、揚げ足を取られそうになった。
やっぱり、あと1年は無理だったな。
知育は、適切な書物があれば、独学でも可能である。学校の教育は、特に知的能力のある子どもにとって、知育を遅らせる原因にすらなりかねない。ただし、それは独学をなす気力がその子に備わっている場合のことで、その気力を養う徳育は、独学だけでは不可能である。
なぜなら、“徳”、つまり「精神の力強さ」は社会関係の中で養われるものであるから、級友の存在が必要となる。また、“徳”は歴史的なものであるのみならず、人格に具体化されるものなので、教師の存在がなければならない。
“徳”とは、葛藤の中で平衡を持す精神の力強さのことだが、その平衡感覚を具体的にどう示すかは、「時と所と場合」による。偉大な先人が、どういう「時と所と場合」において、いかに平衡の気力を発揮したかについて、知育として紹介し解説することは出来る。それは知育であって、徳育ではない。
だったら教師には何が出来るのか。
すぐれた教師は、知育の“教え方”のなかで、自分は道徳を目指しているが、それをまだしっかりと手にしていないということを、児童、生徒、学生たちに伝えることが出来る。彼らがのちに振り返って、学校で何を学んだかを思い出すとき、記憶にもっとも強く残っているのは、教師の“完成をめざす不完全さ”ということであるに違いない。
西部邁さんの言葉である。
『学問』 西部邁 講談社 ¥ 時価 人生に必要なもの、一人の女性、一人の親友、一つの思い出、一冊の本。その一冊。 |
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私は36年間、高校教師を続けて、定年まで1年残して早期退職をした。最後の1年を我慢しきることは、どうも出来そうもないと考えたからだ。
学生と正面から向き合って、自分をさらけ出し、いまだに道徳にたどり着けない自分が、もがくようにして徳を求めている姿を見せる以外に、学生に前に進むことを促すことは出来ない。
教員生活の半分くらいは、それを、ある程度は出来ていた。しかし、ふと冷静に周囲を見ると、いつの間にか、それが職を賭さなければならないほどの、危険な行為になっていた。
気がついたら、社会が、親が、だけではない。学生がそれを求めていなかった。
西部さんの言うとおり、児童、生徒の徳育にとって決定的なのは、教師の道徳的な資質、さらにはそれを目ざす姿勢もさりながら、教育行政、家族や地域共同体の環境である。学生の徳育にあっては、国家の理念や国策体系に、自分が得た知育がどう貢献できるかという展望が重要である。
今そこにある展望は、それが自分の利益につながるかどうかが関の山。これで若者の、心が共鳴するか。
家族から国家に至る共同体を、特にその道徳的な基盤を荒れるがままに任せているような国民に、教育を論じる資格はないのではないか。
そこまで手厳しい。
最後の数年間に強く感じたのは、家庭環境が大きく変わってしまったこと、文科省が教育をねじったりひねったりで、なにかと仕事がやりづらくなってしまったのはその通りなんだけど、それだけならまだ良かった。
それ以上に唖然とさせられたのは、学生が変わったことだ。周りの環境がここまで変わったのだから、学生が変わってくるのも当然ではある。どう変わったのかと言えば、短絡的になった。10年後、20年後を考えるのではなく、目先のことしか考えなくなった。地道な努力よりも、目に見える成果を求めるようになった。身体を張ろうとすると、揚げ足を取られそうになった。
やっぱり、あと1年は無理だったな。
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