竹取物語『おとぎ話に隠された古代史の謎』
『竹取物語』のクライマックスシーン、かぐや姫を迎えに来た月の都の天人たちが、かぐや姫に向かって言う言葉。
「いざ、かぐや姫、穢きところにいかでは久しくおはせん」
かぐや姫に言い寄った五人の貴公子たちは、いずれも実在の人物だという。それは8世紀初頭の朝堂を牛耳っていた高級官僚たち。
石つくりの御子、右大臣あべのみむらじ、大納言大伴のみゆき、中納言いそのかみのまろたり、くらもちの皇子。それがそれぞれ、文武5年(701)の政府高官、左大臣多治比嶋、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御幸、大納言石上麻呂、大納言藤原不比等。
この“くらもちの皇子”については、「心たばかりある人にて(謀略好き)」と書いている。実際、くらもちの皇子はかぐや姫から与えられた課題である「蓬莱の玉の枝」を、蓬莱山に行くように見せかけて職人を雇い、それを作らせておいて報酬を払わなかった。
くらもちの皇子が、できあがった見事な「蓬莱の玉の枝」をもってかぐや姫に結婚を迫る。かぐや姫は嫌で嫌でたまらなかったのだが、くらもちの皇子の雇った職人たちがかぐや姫に報酬を要求したことから、くらもちの皇子の嘘がばれる。かぐや姫は「愉快でたまらない」と叫んで職人たちに褒美を与える。腹を立てたくらもちの皇子は職人を待ち伏せして血の出るほど打ちのめし、報酬を巻き上げた。
他の4人は、こんなにも酷い書かれ方はしていない。くらもちの皇子だけが悪人として描かれている。
『竹取物語』の作者は、時の権力者藤原氏を深く恨み、“くらもちの皇子”という偽名を使って、平安朝廷を「穢きところ」とののしらせた。
紀氏は紀州に地盤を持った一族で、古くからヤマト朝廷に影響を与えた名門氏族。その祖は、武内宿禰の子、紀角宿禰とされるから、蘇我氏の遠縁に当たる。
紀氏は蘇我本宗家滅亡後、この穴を埋めるように中央政界に参画してくる。特に奈良時代末に即位した光仁天皇の母が紀氏出身であったことから力をつけ、平安時代になると藤原氏最大のライバルとなる。


『竹取物語』の幕切れでかぐや姫が付きに帰るとき、天人がかぐや姫に羽衣を着せようとすると、かぐや姫はそれを遮り「羽衣を着れば人ではなくなってしまう」と言ってそのその前に、帝への手紙をしたため、不老不死の薬を残す。ところが、のちに帝は、かぐや姫のいないこの世で不死は無用と、薬を焼いてしまう。
この古事から富士山は不老不死と結びつき、不死山=不二山から、鎌倉時代に富士山と表記されるようになる。
藤原氏と対決した聖武天皇が敗れ去り、その娘の称徳天皇が、「藤原氏のための天皇ならいっそ」と、物部氏の系列に属する弓削氏出身で、志貴皇子の落胤という噂のある道鏡を、新たな天皇として擁立しようとした。
あえて不老不死の薬を飲むことをやめて焼いてしまうという行為は、連綿と続いた天皇の血筋を放棄する称徳天皇の決断を連想させる。
『竹取物語』は、その話の中に、強烈な藤原氏への反発と、藤原氏が支配する世を唾棄するかのような嫌悪感を感じさせる。
平群氏、葛城氏、物部氏、大伴氏、巨勢氏と、さまざまな豪族がいた。
ヤマト朝廷成立前後の古代史を考えるとき、やはり大きいのは、隋・唐王朝との関係で、焦点は律令の導入。
かつて、中大兄皇子と中臣鎌足は、反対勢力であった蘇我氏を乙巳の変で倒し、律令を日本に導入したと考えられていた。しかし、最近は、蘇我氏は律令導入に積極的であったと言われるようになった。そうなると、乙巳の変は単なるクーデターに過ぎなくなる。
律令の根幹は公地公民。すべては隋王朝の皇帝のもの。隋は、あまたの戦いを制して“中国”を統一した。皇帝は絶対的な存在となった。それくらいの力がなければ、豪族たち持つ土地を、そして豪族たちの抱える民を、国のために差し出させるなんてことは出来るわけがない。
その苦難を、蘇我氏は引き受けた。それ以前に行なわれた蘇我馬子と物部守屋戦争も、その大変革をめぐる対立が関係するだろう。一般には仏教導入をめぐる対立が原因とされるが、律令導入は、それ以上の大問題だったはず。あえて、それを前に出さないのは、当時の豪族たちに、そういう合意があったからだろう。
豪族たちは、表向きはどうだったかはともかくとして、出来れば土地を手放したくなかったはず。結果として、乙巳の変を容認したんだろう。
このあと、日本でも大きな戦いが起こっている。壬申の乱。それに勝った天武天皇は絶大な力を持った。蘇我入鹿の成し遂げられなかった律令を、天武は成し遂げた。
しかし、その直後、権力は藤原不比等に掌握され、律令は藤原家のための制度となり、古代豪族の力は、すべて藤原氏に吸い上げられた。
「いざ、かぐや姫、穢きところにいかでは久しくおはせん」
かぐや姫に言い寄った五人の貴公子たちは、いずれも実在の人物だという。それは8世紀初頭の朝堂を牛耳っていた高級官僚たち。
石つくりの御子、右大臣あべのみむらじ、大納言大伴のみゆき、中納言いそのかみのまろたり、くらもちの皇子。それがそれぞれ、文武5年(701)の政府高官、左大臣多治比嶋、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御幸、大納言石上麻呂、大納言藤原不比等。
この“くらもちの皇子”については、「心たばかりある人にて(謀略好き)」と書いている。実際、くらもちの皇子はかぐや姫から与えられた課題である「蓬莱の玉の枝」を、蓬莱山に行くように見せかけて職人を雇い、それを作らせておいて報酬を払わなかった。
くらもちの皇子が、できあがった見事な「蓬莱の玉の枝」をもってかぐや姫に結婚を迫る。かぐや姫は嫌で嫌でたまらなかったのだが、くらもちの皇子の雇った職人たちがかぐや姫に報酬を要求したことから、くらもちの皇子の嘘がばれる。かぐや姫は「愉快でたまらない」と叫んで職人たちに褒美を与える。腹を立てたくらもちの皇子は職人を待ち伏せして血の出るほど打ちのめし、報酬を巻き上げた。
他の4人は、こんなにも酷い書かれ方はしていない。くらもちの皇子だけが悪人として描かれている。
『竹取物語』の作者は、時の権力者藤原氏を深く恨み、“くらもちの皇子”という偽名を使って、平安朝廷を「穢きところ」とののしらせた。
紀氏は紀州に地盤を持った一族で、古くからヤマト朝廷に影響を与えた名門氏族。その祖は、武内宿禰の子、紀角宿禰とされるから、蘇我氏の遠縁に当たる。
紀氏は蘇我本宗家滅亡後、この穴を埋めるように中央政界に参画してくる。特に奈良時代末に即位した光仁天皇の母が紀氏出身であったことから力をつけ、平安時代になると藤原氏最大のライバルとなる。
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『竹取物語』の幕切れでかぐや姫が付きに帰るとき、天人がかぐや姫に羽衣を着せようとすると、かぐや姫はそれを遮り「羽衣を着れば人ではなくなってしまう」と言ってそのその前に、帝への手紙をしたため、不老不死の薬を残す。ところが、のちに帝は、かぐや姫のいないこの世で不死は無用と、薬を焼いてしまう。
この古事から富士山は不老不死と結びつき、不死山=不二山から、鎌倉時代に富士山と表記されるようになる。
藤原氏と対決した聖武天皇が敗れ去り、その娘の称徳天皇が、「藤原氏のための天皇ならいっそ」と、物部氏の系列に属する弓削氏出身で、志貴皇子の落胤という噂のある道鏡を、新たな天皇として擁立しようとした。
あえて不老不死の薬を飲むことをやめて焼いてしまうという行為は、連綿と続いた天皇の血筋を放棄する称徳天皇の決断を連想させる。
『竹取物語』は、その話の中に、強烈な藤原氏への反発と、藤原氏が支配する世を唾棄するかのような嫌悪感を感じさせる。
平群氏、葛城氏、物部氏、大伴氏、巨勢氏と、さまざまな豪族がいた。
ヤマト朝廷成立前後の古代史を考えるとき、やはり大きいのは、隋・唐王朝との関係で、焦点は律令の導入。
かつて、中大兄皇子と中臣鎌足は、反対勢力であった蘇我氏を乙巳の変で倒し、律令を日本に導入したと考えられていた。しかし、最近は、蘇我氏は律令導入に積極的であったと言われるようになった。そうなると、乙巳の変は単なるクーデターに過ぎなくなる。
律令の根幹は公地公民。すべては隋王朝の皇帝のもの。隋は、あまたの戦いを制して“中国”を統一した。皇帝は絶対的な存在となった。それくらいの力がなければ、豪族たち持つ土地を、そして豪族たちの抱える民を、国のために差し出させるなんてことは出来るわけがない。
その苦難を、蘇我氏は引き受けた。それ以前に行なわれた蘇我馬子と物部守屋戦争も、その大変革をめぐる対立が関係するだろう。一般には仏教導入をめぐる対立が原因とされるが、律令導入は、それ以上の大問題だったはず。あえて、それを前に出さないのは、当時の豪族たちに、そういう合意があったからだろう。
豪族たちは、表向きはどうだったかはともかくとして、出来れば土地を手放したくなかったはず。結果として、乙巳の変を容認したんだろう。
このあと、日本でも大きな戦いが起こっている。壬申の乱。それに勝った天武天皇は絶大な力を持った。蘇我入鹿の成し遂げられなかった律令を、天武は成し遂げた。
しかし、その直後、権力は藤原不比等に掌握され、律令は藤原家のための制度となり、古代豪族の力は、すべて藤原氏に吸い上げられた。
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