『天皇の国史』 竹田恒泰
昭和35年の生まれ。
今上陛下と、そして私も。
陛下は昭和35年2月23日。私はちょうど一ヶ月遅れの3月23日。陛下は当時皇太子であった現上皇陛下の長男として生まれたわけだから、当たり前ながら、なにかとニュースに取り上げられることが多かった。今でも、悠仁親王の成長の様子が、事あるごとにニュースで取り上げられるのと一緒だ。
陛下の成長の過程がニュースで報道されるたび、母はそれを私に話した。勝手ながら、なんとなく陛下には親しみを覚えていた。
なにしろ同じ年の4月に小学校に入学し、それ以降、同じ年の4月に同じ学年に進級し、同じ年の3月に小学校を卒業するのだ。新しい学生服を着て、私のは先々の成長を考えて、ずいぶん大きめの学生服だったが、同じ年の4月に中学校に入学した。
お調子者の私だから、誕生日が、ちょうど1ヶ月違いであることを、ネタにしていたこともあったが、私にとっての陛下は、名によりも時代の同行者であったように思える。
田舎の高校から東京の大学への進学は、私には大きな出来事だった。受験勉強に苦しんだときも、記憶にはないが、おそらく陛下のことを羨んでいたに違いない。皇室に、しかも長男として生まれた人の重圧は、それなりに理解しつつもね。
私は、大学を卒業し、一年間、私学で講師をしながら、公立高校の教員試験を目指した。翌年、何とか滑り込みで採用され、教員としての人生をはじめ、数年後に結婚して二人の子どもの親になった。
陛下は大学を卒業後、オクスフォード大学に留学した。陛下が日本に帰ってきたときには、私はもう結婚してたな。陛下と雅子さまの結婚は1993年か。いろいろと難しいこともあるんだろうけど、失礼ながら、ホッとする思いだった。
それから四半世紀が過ぎて、天皇位に即位され、今年はお嬢さまの愛子さまも大学入学だという。雅子さまの健康面のことも合わせて、いろいろあった。子育てという点だけは、先行させてもらったが、結局今年、一緒に還暦を迎えた。
どこまで行っても、私にとっての陛下は、時代の同行者だ。


『天皇の国史』という題名である。
“国史”であるから、日本の歴史を語る本である。しかし、話は、人類の起源から始まる。もちろん、日本の歴史を語るためである。日本人とは何か。どこから来たか。それを語るためである。
600ページを越えて、この国のことを語る本だが、冒頭、《第一章 日本の神代・先史》、つまり文字のない時代に102ページを使っている。昭和から現在までに211ページ使っているのだが、その半分を文字のない時代の話に使っている。
著者が、この時代を重視しているからこそだろう。その時代に、現在の私たちにまで続く、日本の特質、日本人の特質が形成されてきた。だからこそ、その時代のできる限り正確に理解しないと、それに続く時代に対する理解が、すべて不正確なものになってしまいかねない。
たしかに、かつての歴史認識にはそういう点が少なくなかった。騎馬民族説であるとか、朝鮮系渡来人によって日本が作られたと言われていて、それを前提にのちの時代を考えていくことになるから、当然、日本史全般に対して不正確な理解になる。それを土台をにして、私たちはどうあるべきかを考えるのが歴史の役割であるから、私たちは、正しい道を歩むことができない。
しかし、近年の発掘調査の進展と、科学技術の進歩によって、多くの学説が修正を余儀なくされたり、否定されたりしている。つまり、新説、真説により、歴史が語られるようになってきているわけだ。だから、著者は、文字による記録のない《神代・先史》に、それだけのページを割いたわけだ。
言うまでもなく、著者の竹田恒泰さんは、旧皇族である竹田家の生まれ。恒泰さん自身、明治天皇の玄孫と言うことなので、今上陛下と同じ血筋と言うことだ。
この国は、“万世一系の天皇の治す所なり”なわけだから、《国史》、つまり日本史は、竹田さんの家の歴史でもあったわけだ。壬申の乱では、竹田さんのご先祖さまは叔父と甥で内戦をやったわけだ。竹田さんのご先祖さまの白河上皇は、孫の妻に手を出して自分の子どもを産ませ、結果として武士の時代の幕を開けてしまうことになる。
竹田さんのご先祖さまの後鳥羽上皇は、鎌倉幕府に喧嘩を売って敗れ、隠岐に流されて、以後、江戸時代が終わるまで武士の時代が続いたんだな。一時、後醍醐天皇が個性を発揮したけど、それと前後して皇統が二つに割れてしまい、南北朝時代を招くことになる。それがまとまったは良いが、その直後、足利義満には、ほとんどその皇統そのものを奪われかけた。
まあ、竹田さんにしてみれば、《国史》はそう見えるわけだ。
私は、戦前の教育を受けた父母とは違い、歴史の大きな節目を生きた天皇くらいしか名前を挙げることはできない。でも、歴代の天皇は、すべてがこの国のために祈る存在であり、その役割を果たしてきた。その時々の判断に首をかしげる人もいるが、祈り続けてきた人たちであることは間違いない。
疫病が流行しては祈り、飢饉になっては祈り、戦いに祈り、災害に祈った。その一つ一つを、実は私はよく知らない。そういうことを教えてくれる本でもある。つまり、あの大きな出来事があったときも、天皇は祈ったと言うことを。
つまり、天皇は、常に、その時代に生きている人に同行しているのである。
私はどこまで、陛下と一緒に歩いて行けるだろうか。
今上陛下と、そして私も。
陛下は昭和35年2月23日。私はちょうど一ヶ月遅れの3月23日。陛下は当時皇太子であった現上皇陛下の長男として生まれたわけだから、当たり前ながら、なにかとニュースに取り上げられることが多かった。今でも、悠仁親王の成長の様子が、事あるごとにニュースで取り上げられるのと一緒だ。
陛下の成長の過程がニュースで報道されるたび、母はそれを私に話した。勝手ながら、なんとなく陛下には親しみを覚えていた。
なにしろ同じ年の4月に小学校に入学し、それ以降、同じ年の4月に同じ学年に進級し、同じ年の3月に小学校を卒業するのだ。新しい学生服を着て、私のは先々の成長を考えて、ずいぶん大きめの学生服だったが、同じ年の4月に中学校に入学した。
お調子者の私だから、誕生日が、ちょうど1ヶ月違いであることを、ネタにしていたこともあったが、私にとっての陛下は、名によりも時代の同行者であったように思える。
田舎の高校から東京の大学への進学は、私には大きな出来事だった。受験勉強に苦しんだときも、記憶にはないが、おそらく陛下のことを羨んでいたに違いない。皇室に、しかも長男として生まれた人の重圧は、それなりに理解しつつもね。
私は、大学を卒業し、一年間、私学で講師をしながら、公立高校の教員試験を目指した。翌年、何とか滑り込みで採用され、教員としての人生をはじめ、数年後に結婚して二人の子どもの親になった。
陛下は大学を卒業後、オクスフォード大学に留学した。陛下が日本に帰ってきたときには、私はもう結婚してたな。陛下と雅子さまの結婚は1993年か。いろいろと難しいこともあるんだろうけど、失礼ながら、ホッとする思いだった。
それから四半世紀が過ぎて、天皇位に即位され、今年はお嬢さまの愛子さまも大学入学だという。雅子さまの健康面のことも合わせて、いろいろあった。子育てという点だけは、先行させてもらったが、結局今年、一緒に還暦を迎えた。
どこまで行っても、私にとっての陛下は、時代の同行者だ。
縄文弥生『天皇の国史』 竹田恒泰 PHP研究所 ¥ 1,980 元皇族が「これまでの研究活動と執筆活動の集大成となった」と自ら語る渾身の1冊 |
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『天皇の国史』という題名である。
“国史”であるから、日本の歴史を語る本である。しかし、話は、人類の起源から始まる。もちろん、日本の歴史を語るためである。日本人とは何か。どこから来たか。それを語るためである。
600ページを越えて、この国のことを語る本だが、冒頭、《第一章 日本の神代・先史》、つまり文字のない時代に102ページを使っている。昭和から現在までに211ページ使っているのだが、その半分を文字のない時代の話に使っている。
著者が、この時代を重視しているからこそだろう。その時代に、現在の私たちにまで続く、日本の特質、日本人の特質が形成されてきた。だからこそ、その時代のできる限り正確に理解しないと、それに続く時代に対する理解が、すべて不正確なものになってしまいかねない。
たしかに、かつての歴史認識にはそういう点が少なくなかった。騎馬民族説であるとか、朝鮮系渡来人によって日本が作られたと言われていて、それを前提にのちの時代を考えていくことになるから、当然、日本史全般に対して不正確な理解になる。それを土台をにして、私たちはどうあるべきかを考えるのが歴史の役割であるから、私たちは、正しい道を歩むことができない。
しかし、近年の発掘調査の進展と、科学技術の進歩によって、多くの学説が修正を余儀なくされたり、否定されたりしている。つまり、新説、真説により、歴史が語られるようになってきているわけだ。だから、著者は、文字による記録のない《神代・先史》に、それだけのページを割いたわけだ。
言うまでもなく、著者の竹田恒泰さんは、旧皇族である竹田家の生まれ。恒泰さん自身、明治天皇の玄孫と言うことなので、今上陛下と同じ血筋と言うことだ。
この国は、“万世一系の天皇の治す所なり”なわけだから、《国史》、つまり日本史は、竹田さんの家の歴史でもあったわけだ。壬申の乱では、竹田さんのご先祖さまは叔父と甥で内戦をやったわけだ。竹田さんのご先祖さまの白河上皇は、孫の妻に手を出して自分の子どもを産ませ、結果として武士の時代の幕を開けてしまうことになる。
竹田さんのご先祖さまの後鳥羽上皇は、鎌倉幕府に喧嘩を売って敗れ、隠岐に流されて、以後、江戸時代が終わるまで武士の時代が続いたんだな。一時、後醍醐天皇が個性を発揮したけど、それと前後して皇統が二つに割れてしまい、南北朝時代を招くことになる。それがまとまったは良いが、その直後、足利義満には、ほとんどその皇統そのものを奪われかけた。
まあ、竹田さんにしてみれば、《国史》はそう見えるわけだ。
私は、戦前の教育を受けた父母とは違い、歴史の大きな節目を生きた天皇くらいしか名前を挙げることはできない。でも、歴代の天皇は、すべてがこの国のために祈る存在であり、その役割を果たしてきた。その時々の判断に首をかしげる人もいるが、祈り続けてきた人たちであることは間違いない。
疫病が流行しては祈り、飢饉になっては祈り、戦いに祈り、災害に祈った。その一つ一つを、実は私はよく知らない。そういうことを教えてくれる本でもある。つまり、あの大きな出来事があったときも、天皇は祈ったと言うことを。
つまり、天皇は、常に、その時代に生きている人に同行しているのである。
私はどこまで、陛下と一緒に歩いて行けるだろうか。
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