『剱岳ー線の記』 髙橋大輔
思わぬところで三角点を見つけることがある。
この間登った虎秀山で、三角点を見つけたときも驚いた。三角点には一等から四等まであるという。一等は1500㎢に一点、二等は55㎢に一点、三等は8㎢に一点、四等は2㎢に一点といった間隔で設置しているという。
その三角点が何等かは、側面に書いてあるんだそうだ。今度見つけたら必ず確認しよう。ただし、風雪で消えている場合もあるらしい。そんなときは一辺の長さを測る。一等は18㎝、二等と三等は15㎝、四等は12㎝だそうだ。
虎秀山の三角点は、いったい何等のものだったんだろう。おそらく三等か、四等だろう。ああ、確認したい。
『剱岳ー線の記』の著者である髙橋大輔さんが、誰が、どのルートから剱岳初登頂を果たしたのかに興味を持つきっかけとなったのは、もちろん、『劔岳〈点の記〉』にある。“点の記”とは、三角点設置の記録のこと。
宗教登山による開山となった山をのぞき、日本の山のほとんどは、明治時代に陸地測量隊によって初登頂がなされている。そして、最後に残された山が、弘法大師がワラジ3000足を使っても登れなかったという剱岳だったわけだ。そこで陸地測量隊が、何度もの挫折を乗り越えてようやく登頂を果たしたとき、そこに修行僧の使う錫杖の頭を見つけたわけだ。
“いつ” 山頂に立ったのは何年か
“誰が” 山頂に錫杖頭と鉄剣をおいたのは誰か
“どのように” どのようにして山頂を極めたのか
“どの” どのルートから山頂にたどり着いたのか
“どこに” 山頂のどこに錫杖頭と鉄剣をおいたのか
”なぜ” なぜ山頂に立とうとしたのか
髙橋大輔さんは、それを知りたくなった。分かっていることもある。
“いつ” 古代 奈良時代から平安時代
“誰が” 山伏
“どのように” 登攀技術や装備のない、空身で登った
“どの” 別山尾根ルートか早月尾根ルート
“どこに” 剱岳山頂
“なぜ” 仏教の祭事か修行のため
だけど髙橋さんは、これでは満足できなかった。だから、とりあえず、剱岳に登ってみた。


髙橋さんの一連の探求は、2016年に始まった。
そして、その成果の一部であるルートの探求に関しては、すでに2018年11月にNHKの特注番組で放映されている。ロッククライミングの技術も、近代的な装備もない平安時代のことだからね。靴だって履いてない。わらじだよ、わらじ。
ただし、山岳修行で鍛え上げたとてつもない体力と、真理を目ざす宗教的探究心があふれ出すような人だったに違いない。それはまさしく、技術や装備の欠落を補ってあまりあるものだったということになる。
私は、それを見ていた。ガイドの案内で、立山川をハゲマンザイと呼ばれる場所まで遡行し、そこから45度の谷筋を上がって早月尾根に合流する。
先日読んだ、地名に関する本にもあった。ハゲマンザイの“ハゲ”は、岩崩れでできた地形を意味する。見るからに、これは厄介だった。上部まで行けば木があるが、まあ、それなりに薮をこぐことになるが、木があれば掴まることができる。しかし、そこより下では、草付きに頼るほかはない。これは怖い。
でも、このルートで髙橋さん一行が剱岳登頂を果たしたことで、1000年前の平安時代でも、剱岳に登ることができると、実証されたことになった。
そのテレビ番組の記憶をもとに、この本を読んだ。
ルートの探求は、とても面白いものだった。その過程で、髙橋さんは、色々なことに気づかされていく。ハゲマンザイのハゲだけでなくマンザイにも、実は深い意味があった。その他にも色々とね。
だけど、テレビで放映されたのはあくまでもルート探索であった。でも、雄山から登って、大汝山、富士ノ折立、別山と歩いた人なら、そして別山から剣を見た人なら、誰でもがドキッとすることを、髙橋さんが書いている。ここが縦走路としてつながっていることに、大きな意味があるというのだ。
雄山山頂の神社の拝殿での参拝は、剣を拝むことになる。縦走の半ば、富士ノ折立には「不死の世界におり立つ」という意味があるらしい。雄山に登ってから別山に向けて歩く途中、剣の見所はさまざまある。だけど、別山について気がつく。これ以上、剣がかっこよく見えるところはない。
そしてそこで思うのは、地獄を恐れることとは考えにくい。魂の未来営業を祈ったのではないかというのだ。
なんだか、主峰の月山を過去、羽黒山を現在、出羽三山の奥宮の湯殿山を未来とし、月山で死とよみがえりを体験し、湯殿山で再生を体験する三山信仰に、よく似てるじゃないか。
読んでもらえば、もっと奥が深い。
この間登った虎秀山で、三角点を見つけたときも驚いた。三角点には一等から四等まであるという。一等は1500㎢に一点、二等は55㎢に一点、三等は8㎢に一点、四等は2㎢に一点といった間隔で設置しているという。
その三角点が何等かは、側面に書いてあるんだそうだ。今度見つけたら必ず確認しよう。ただし、風雪で消えている場合もあるらしい。そんなときは一辺の長さを測る。一等は18㎝、二等と三等は15㎝、四等は12㎝だそうだ。
虎秀山の三角点は、いったい何等のものだったんだろう。おそらく三等か、四等だろう。ああ、確認したい。
『剱岳ー線の記』の著者である髙橋大輔さんが、誰が、どのルートから剱岳初登頂を果たしたのかに興味を持つきっかけとなったのは、もちろん、『劔岳〈点の記〉』にある。“点の記”とは、三角点設置の記録のこと。
宗教登山による開山となった山をのぞき、日本の山のほとんどは、明治時代に陸地測量隊によって初登頂がなされている。そして、最後に残された山が、弘法大師がワラジ3000足を使っても登れなかったという剱岳だったわけだ。そこで陸地測量隊が、何度もの挫折を乗り越えてようやく登頂を果たしたとき、そこに修行僧の使う錫杖の頭を見つけたわけだ。
“いつ” 山頂に立ったのは何年か
“誰が” 山頂に錫杖頭と鉄剣をおいたのは誰か
“どのように” どのようにして山頂を極めたのか
“どの” どのルートから山頂にたどり着いたのか
“どこに” 山頂のどこに錫杖頭と鉄剣をおいたのか
”なぜ” なぜ山頂に立とうとしたのか
髙橋大輔さんは、それを知りたくなった。分かっていることもある。
“いつ” 古代 奈良時代から平安時代
“誰が” 山伏
“どのように” 登攀技術や装備のない、空身で登った
“どの” 別山尾根ルートか早月尾根ルート
“どこに” 剱岳山頂
“なぜ” 仏教の祭事か修行のため
だけど髙橋さんは、これでは満足できなかった。だから、とりあえず、剱岳に登ってみた。
『剱岳ー線の記』 髙橋大輔 朝日新聞出版 ¥ 1,870 岩と雪の殿堂、剱岳。誰が、どのルートから。探検家髙橋大輔がその謎に挑む |
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髙橋さんの一連の探求は、2016年に始まった。
そして、その成果の一部であるルートの探求に関しては、すでに2018年11月にNHKの特注番組で放映されている。ロッククライミングの技術も、近代的な装備もない平安時代のことだからね。靴だって履いてない。わらじだよ、わらじ。
ただし、山岳修行で鍛え上げたとてつもない体力と、真理を目ざす宗教的探究心があふれ出すような人だったに違いない。それはまさしく、技術や装備の欠落を補ってあまりあるものだったということになる。
私は、それを見ていた。ガイドの案内で、立山川をハゲマンザイと呼ばれる場所まで遡行し、そこから45度の谷筋を上がって早月尾根に合流する。
先日読んだ、地名に関する本にもあった。ハゲマンザイの“ハゲ”は、岩崩れでできた地形を意味する。見るからに、これは厄介だった。上部まで行けば木があるが、まあ、それなりに薮をこぐことになるが、木があれば掴まることができる。しかし、そこより下では、草付きに頼るほかはない。これは怖い。
でも、このルートで髙橋さん一行が剱岳登頂を果たしたことで、1000年前の平安時代でも、剱岳に登ることができると、実証されたことになった。
そのテレビ番組の記憶をもとに、この本を読んだ。
ルートの探求は、とても面白いものだった。その過程で、髙橋さんは、色々なことに気づかされていく。ハゲマンザイのハゲだけでなくマンザイにも、実は深い意味があった。その他にも色々とね。
だけど、テレビで放映されたのはあくまでもルート探索であった。でも、雄山から登って、大汝山、富士ノ折立、別山と歩いた人なら、そして別山から剣を見た人なら、誰でもがドキッとすることを、髙橋さんが書いている。ここが縦走路としてつながっていることに、大きな意味があるというのだ。
雄山山頂の神社の拝殿での参拝は、剣を拝むことになる。縦走の半ば、富士ノ折立には「不死の世界におり立つ」という意味があるらしい。雄山に登ってから別山に向けて歩く途中、剣の見所はさまざまある。だけど、別山について気がつく。これ以上、剣がかっこよく見えるところはない。
そしてそこで思うのは、地獄を恐れることとは考えにくい。魂の未来営業を祈ったのではないかというのだ。
なんだか、主峰の月山を過去、羽黒山を現在、出羽三山の奥宮の湯殿山を未来とし、月山で死とよみがえりを体験し、湯殿山で再生を体験する三山信仰に、よく似てるじゃないか。
読んでもらえば、もっと奥が深い。
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