『もっこすの城』 伊東潤
熊本城は、でかかったな~。
訪れたのは20年ほど前だったかな。まずは長崎を観光した。その後、雲仙に行って、普賢岳の噴火被災地に立ち寄った。それから、フェリーで有明海を越えて熊本に渡ったんだ、・・・たしか。熊本を観光した後は、柳川の水郷巡りをしたな。そこから博多で遊んで帰ったんだ。
熊本城は黒かった。
織田信長の家臣である木村忠範は、まさに安土城を築き上げた城作りの名手であった。だからこそ、信長が本能寺に斃れた後、多くの者が逃亡していく中、わずかな手勢と共に、押し寄せる明智勢に突入して果てた。その木村忠範の残した秘伝書と、城作りにかけた思いを受け継いだのが、忠範の子、秀範であった。
肥後佐々家の改易により、急遽、肥後北部十九万五千石が、加藤清正に任されることになった。三千国の知行しかなかった清正は、大急ぎで多くの家臣を召し抱えなければならなくなった。信長が殺されて寄る辺のなかった秀範は、この時、加藤家に召し抱えられることになる。
清正が、肥後北部十九万五千石の藩主として領国経営に邁進するとき、秀範が父から託された知恵と思いは、さまざまな形で役に立った。
すでに惣無事令が出され、秀吉の天下は定まった。九州征伐、小田原征伐と続き、奥州仕置きも済めば、“城”の持つ意味も変わる。ところが、秀吉は“唐入り”を言い出すことになる。残念なことに、加藤清正一世一代の活躍の場が、この“唐入り”になる。そして、秀範も、この“唐入り”に帯同することになる。
何とか命からがら帰ってくれば、今度は秀吉後の争いが始まるわけだ。家康が、豊臣政権に亀裂を入れ、その傷を広げ、少しずつ力を奪っていく。清正は、関ヶ原では東軍、つまり家康側についている。秀吉によって成し遂げられた世の太平を受け継げるのは、家康以外にあり得ないことを理解していたんだろう。それでも、秀頼だけは、なんとしても守り抜こうとしていた。
最後には大坂の陣が待っている。おそらくそれも、考えていた。だからこその、熊本城。
その熊本城が、秀範最後の仕事になる。・・・文字通り、最後の


これまでにも、城作りに関わる物語をいくつか読んだ。
どちらも、佐々木譲が書いたもので、『天下城』と『獅子の城塞』。
『天下城』は、戦国時代に城が落ちたことで鉱山に送られるという辛酸をなめた佐久の少年市郎太の生涯を描いた話。難攻不落の城を築きたいという望みを抱き兵法者の小者になり各地を遍歴、師の死去により道を絶たれた後、穴太衆の親方と出会い石積みとして生きてゆく。南蛮渡来の鉄砲により戦や城のあり方が変わろうとしていた時代を石積み職人の目から見つめている。彼は、戦国時代の多くの城作りに関わり、最後は安土城にも関わった。
『獅子の城塞』は、その市郎太の次男で、信長から命じられて、”南蛮の城作り”を学びにヨーロッパに渡った男の話。貪欲に西洋の技を身につけ、たちまち名を上げていくんだけど、ごく当たり前に、ヨーロッパは宗教戦争の時代。つまりは、城作りが意味を持つ時代だった。片や日本は、徳川の世が定まる時代になるわけだ。
どちらも、面白い話だった。城作りというのは、戦いの時代であればこそ、あえて“城作り”であるんだろう。だけど、そうそうお城が必要となる時代ではなければ、建築家だな。土木業者ということになる。
石積みの穴太衆であるとか、金剛組であるとか、もの凄い昔から建築土木に携わってきた集団が、日本の場合、そのまま現代に残っている。技術だって伝わっているんだろう。
『天下城』の戸波市郎太や、この『もっこすの城』の木村秀範の技も、おそらく今に伝わっているんだろうな。これが途切れなく続いていることが、日本の強み。途切れることなく技術を伝え、受け継いできたことのよる引き出しの多さは、かならず役に立つときが来る。
「今、必要のないものは捨てる」
そんな世界の風潮に、日本も流されてしまうことを恐れる。
熊本城は西南戦争で、精強な薩摩郡を相手に五十日以上の籠城線を持ちこたえた。清正の時は完成を急ぐ必要があったが、後に細川家によって仕上げが加えられた。そのおかげもあって、まさに城としての真価を発揮したわけだ。
その熊本城も、熊本地震で、大きく被災した。
『城は戦うためにあらず、民を守るためにある』
この本の中での、清正のセリフだが、熊本城が熊本の人たちの心を支えるなら、上の言葉はそのままである。ただ、一歩進んで、“城作り”を建築土木と考えるなら、それはまさに、民を守るためにある。
訪れたのは20年ほど前だったかな。まずは長崎を観光した。その後、雲仙に行って、普賢岳の噴火被災地に立ち寄った。それから、フェリーで有明海を越えて熊本に渡ったんだ、・・・たしか。熊本を観光した後は、柳川の水郷巡りをしたな。そこから博多で遊んで帰ったんだ。
熊本城は黒かった。
織田信長の家臣である木村忠範は、まさに安土城を築き上げた城作りの名手であった。だからこそ、信長が本能寺に斃れた後、多くの者が逃亡していく中、わずかな手勢と共に、押し寄せる明智勢に突入して果てた。その木村忠範の残した秘伝書と、城作りにかけた思いを受け継いだのが、忠範の子、秀範であった。
肥後佐々家の改易により、急遽、肥後北部十九万五千石が、加藤清正に任されることになった。三千国の知行しかなかった清正は、大急ぎで多くの家臣を召し抱えなければならなくなった。信長が殺されて寄る辺のなかった秀範は、この時、加藤家に召し抱えられることになる。
清正が、肥後北部十九万五千石の藩主として領国経営に邁進するとき、秀範が父から託された知恵と思いは、さまざまな形で役に立った。
すでに惣無事令が出され、秀吉の天下は定まった。九州征伐、小田原征伐と続き、奥州仕置きも済めば、“城”の持つ意味も変わる。ところが、秀吉は“唐入り”を言い出すことになる。残念なことに、加藤清正一世一代の活躍の場が、この“唐入り”になる。そして、秀範も、この“唐入り”に帯同することになる。
何とか命からがら帰ってくれば、今度は秀吉後の争いが始まるわけだ。家康が、豊臣政権に亀裂を入れ、その傷を広げ、少しずつ力を奪っていく。清正は、関ヶ原では東軍、つまり家康側についている。秀吉によって成し遂げられた世の太平を受け継げるのは、家康以外にあり得ないことを理解していたんだろう。それでも、秀頼だけは、なんとしても守り抜こうとしていた。
最後には大坂の陣が待っている。おそらくそれも、考えていた。だからこその、熊本城。
その熊本城が、秀範最後の仕事になる。・・・文字通り、最後の
『もっこすの城』 伊東潤 KADOKAWA ¥ 2,090 藤九郎は、日本一の城を築くことができるのか。日本一の城を造った男の物語。 |
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これまでにも、城作りに関わる物語をいくつか読んだ。
どちらも、佐々木譲が書いたもので、『天下城』と『獅子の城塞』。
『天下城』は、戦国時代に城が落ちたことで鉱山に送られるという辛酸をなめた佐久の少年市郎太の生涯を描いた話。難攻不落の城を築きたいという望みを抱き兵法者の小者になり各地を遍歴、師の死去により道を絶たれた後、穴太衆の親方と出会い石積みとして生きてゆく。南蛮渡来の鉄砲により戦や城のあり方が変わろうとしていた時代を石積み職人の目から見つめている。彼は、戦国時代の多くの城作りに関わり、最後は安土城にも関わった。
『獅子の城塞』は、その市郎太の次男で、信長から命じられて、”南蛮の城作り”を学びにヨーロッパに渡った男の話。貪欲に西洋の技を身につけ、たちまち名を上げていくんだけど、ごく当たり前に、ヨーロッパは宗教戦争の時代。つまりは、城作りが意味を持つ時代だった。片や日本は、徳川の世が定まる時代になるわけだ。
どちらも、面白い話だった。城作りというのは、戦いの時代であればこそ、あえて“城作り”であるんだろう。だけど、そうそうお城が必要となる時代ではなければ、建築家だな。土木業者ということになる。
石積みの穴太衆であるとか、金剛組であるとか、もの凄い昔から建築土木に携わってきた集団が、日本の場合、そのまま現代に残っている。技術だって伝わっているんだろう。
『天下城』の戸波市郎太や、この『もっこすの城』の木村秀範の技も、おそらく今に伝わっているんだろうな。これが途切れなく続いていることが、日本の強み。途切れることなく技術を伝え、受け継いできたことのよる引き出しの多さは、かならず役に立つときが来る。
「今、必要のないものは捨てる」
そんな世界の風潮に、日本も流されてしまうことを恐れる。
熊本城は西南戦争で、精強な薩摩郡を相手に五十日以上の籠城線を持ちこたえた。清正の時は完成を急ぐ必要があったが、後に細川家によって仕上げが加えられた。そのおかげもあって、まさに城としての真価を発揮したわけだ。
その熊本城も、熊本地震で、大きく被災した。
『城は戦うためにあらず、民を守るためにある』
この本の中での、清正のセリフだが、熊本城が熊本の人たちの心を支えるなら、上の言葉はそのままである。ただ、一歩進んで、“城作り”を建築土木と考えるなら、それはまさに、民を守るためにある。
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