『大原千鶴のすぐごはん』 大原千鶴
1年半ほど前のこと、お向かいの奥さまが脳出血で倒れた。
血液をさらさらにする薬を飲んでいたんだけど、胃の検査をすることになって、一時的にその薬をやめていたんだそうだ。奥さまは、数年前に御主人を亡くされて、一人暮らし。鍵を閉めた家の中で斃れて、たまたま電話してきた娘さんが異変に気づいて駆けつけ、消防が玄関のドアをこじ開けた。幸いなことに、大事に至ることはなかった。
その後、奥さまは、少し離れたところに住んでいる娘さんと同居することになった。お向かいの家は、いずれ戻ることも考えておられるようで、人手に渡してはいないようだ。
それ以来、落ち葉や雑草の処理は、自分の家の側のついでに、お向かいの側も片付けてきた。奥さまは心苦しく思われているようで、時々娘さんと一緒に顔を見せてくれる。その都度、おいしい物をいただいてしまう。
年末に顔を見せていただいた際、新潟のおいしいお餅をいただいた。連れ合いと相談して、娘家族が帰ったら、二人だけでいただくことにしておいた。
そして、先日、いよいよ、新潟のおいしいお餅をいただいた。餅を小さく切っておいて、大根おろし、ひき割り納豆、きなこを準備した。いやいや、おいしいこと、おいしいこと。
お腹いっぱい食べたあとに、ひき割り納豆が残ってしまった。
翌日の朝、キャベツときゅうりの千切りに塩をして絞って、それにひき割り納豆をまぶして食べた。とても、おいしかった。それが癖になって、ここのところ毎朝、納豆をドレッシング代わりにしてサラダを食べている。
どうやら、これも、京都で言うところの、“始末”というもののようだ。
“始末”と言えば、ものごとの始まりと終わりのこと。どちらかと言えば、終わりを表わすことが多いように思う。火の始末と言えば、火事が出ないように火を消すこと。店の始末と言えば、店じまいのこと。「万事この始末」と言えば、なにかと終わり方の悪さを表わす。
京都で言うところの“始末”も、しっかりと使い切ることを言っている。食材に限定すれば、それを上手に生かし切ることだな。口に入るものは、もともとは、すべて命を持っていたもの。成仏してもらうには、生かし切らなきゃいけない。


ところが、日本でも大量の食料が捨てられている。
食べ物を捨てるのは良くないな~。そんなことを言いながら、うちでも頻繁にではないが、あることはある。だいたい事件が発生するのは、冷蔵庫の野菜室。もう何ヶ月も前のことだが、一番最近で犠牲になったのは、オクラだった。
今、世の中の移り変わりが、どんどんスピードを上げている。そんな時代に、“始末の良い生き方”を考えるのは、おそらく向かう方角が逆だ。スピードを上げる今の世の中から下りて、ホームの反対側にやってくる下り電車に乗りこむようなもんだ。猛スピードで走り去る電車に手を振って、どうしよう、一駅か二駅戻ろうか。
大原さんだったら、冷蔵庫の残り物に始末をつけて、また反対ホームから特急電車に乗り込むんだろうな。そんなことが平然とできそうな大原さんが、なんだかかっこよく見えるな。私だったら、もう、途中下車して、それっきりだな。実際、2年近く前に、人よりだいぶ早く下りちゃって、それっきり。食材にも、自分にも、始末をつけるための毎日だ。
「卵、豆腐、油揚げ」の始末。いつでも、まず必ず、冷蔵庫に入っている食材だな。始末と言うより、お助け食材。家だったら、これに納豆が加わるな。関西の人は、油揚げの扱いがうまいのに驚く。卵を、黄身と白身に分けて使うのも新鮮だ。
「野菜、果物」の始末。結局、ここに尽きる。野菜をいかに生かし切るか。しかも、「ちょい残り」の始末となると、顔ぶれはその時々で変わる。顔ぶれに合わせて縦横無尽に立ち回る必要がある。
そんなときに、「冷蔵庫に残っている瓶詰め」が役に立つ。“のりの佃煮”、“ピクルス”、“なめたけ”、“ザーサイ”、“アンチョビ”、・・・アンチョビって食べたことなかった。まあ、瓶詰め食品は、味が固まってるから、調味料の代わりになる。
だいたいいつも、ネギ味噌が作ってある。それから、ネギのみじん切りの醤油漬け。けっこう、いろいろな場面で重宝する。ネギのみじん切りの醤油漬けで焼きめし作ったら、絶品。
明日の朝、試そうと思っているのが、“しょうゆ卵”。卵の黄身をしゅうゆ漬けにしたもの。3時間ほどとあるから、今晩からつけてみよう。白身は翌日、白身のオムレツにする。少し泡立ててハムを混ぜ、塩少々で焼く。黄身だけ使う料理はたくさんあるが、この本ではきっちり白身も使い切る。
どんだけ始末に心がけても、必ず残り物は出る。でも大丈夫。それが私の、日々のつまみになる。
血液をさらさらにする薬を飲んでいたんだけど、胃の検査をすることになって、一時的にその薬をやめていたんだそうだ。奥さまは、数年前に御主人を亡くされて、一人暮らし。鍵を閉めた家の中で斃れて、たまたま電話してきた娘さんが異変に気づいて駆けつけ、消防が玄関のドアをこじ開けた。幸いなことに、大事に至ることはなかった。
その後、奥さまは、少し離れたところに住んでいる娘さんと同居することになった。お向かいの家は、いずれ戻ることも考えておられるようで、人手に渡してはいないようだ。
それ以来、落ち葉や雑草の処理は、自分の家の側のついでに、お向かいの側も片付けてきた。奥さまは心苦しく思われているようで、時々娘さんと一緒に顔を見せてくれる。その都度、おいしい物をいただいてしまう。
年末に顔を見せていただいた際、新潟のおいしいお餅をいただいた。連れ合いと相談して、娘家族が帰ったら、二人だけでいただくことにしておいた。
そして、先日、いよいよ、新潟のおいしいお餅をいただいた。餅を小さく切っておいて、大根おろし、ひき割り納豆、きなこを準備した。いやいや、おいしいこと、おいしいこと。
お腹いっぱい食べたあとに、ひき割り納豆が残ってしまった。
翌日の朝、キャベツときゅうりの千切りに塩をして絞って、それにひき割り納豆をまぶして食べた。とても、おいしかった。それが癖になって、ここのところ毎朝、納豆をドレッシング代わりにしてサラダを食べている。
どうやら、これも、京都で言うところの、“始末”というもののようだ。
“始末”と言えば、ものごとの始まりと終わりのこと。どちらかと言えば、終わりを表わすことが多いように思う。火の始末と言えば、火事が出ないように火を消すこと。店の始末と言えば、店じまいのこと。「万事この始末」と言えば、なにかと終わり方の悪さを表わす。
京都で言うところの“始末”も、しっかりと使い切ることを言っている。食材に限定すれば、それを上手に生かし切ることだな。口に入るものは、もともとは、すべて命を持っていたもの。成仏してもらうには、生かし切らなきゃいけない。
『大原千鶴のすぐごはん』 大原千鶴 高橋書店 ¥ 1,650 今ある素材を、おいしく上手に使い切る。押しつけがましくない善良な料理 |
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ところが、日本でも大量の食料が捨てられている。
食べ物を捨てるのは良くないな~。そんなことを言いながら、うちでも頻繁にではないが、あることはある。だいたい事件が発生するのは、冷蔵庫の野菜室。もう何ヶ月も前のことだが、一番最近で犠牲になったのは、オクラだった。
今、世の中の移り変わりが、どんどんスピードを上げている。そんな時代に、“始末の良い生き方”を考えるのは、おそらく向かう方角が逆だ。スピードを上げる今の世の中から下りて、ホームの反対側にやってくる下り電車に乗りこむようなもんだ。猛スピードで走り去る電車に手を振って、どうしよう、一駅か二駅戻ろうか。
大原さんだったら、冷蔵庫の残り物に始末をつけて、また反対ホームから特急電車に乗り込むんだろうな。そんなことが平然とできそうな大原さんが、なんだかかっこよく見えるな。私だったら、もう、途中下車して、それっきりだな。実際、2年近く前に、人よりだいぶ早く下りちゃって、それっきり。食材にも、自分にも、始末をつけるための毎日だ。
「卵、豆腐、油揚げ」の始末。いつでも、まず必ず、冷蔵庫に入っている食材だな。始末と言うより、お助け食材。家だったら、これに納豆が加わるな。関西の人は、油揚げの扱いがうまいのに驚く。卵を、黄身と白身に分けて使うのも新鮮だ。
「野菜、果物」の始末。結局、ここに尽きる。野菜をいかに生かし切るか。しかも、「ちょい残り」の始末となると、顔ぶれはその時々で変わる。顔ぶれに合わせて縦横無尽に立ち回る必要がある。
そんなときに、「冷蔵庫に残っている瓶詰め」が役に立つ。“のりの佃煮”、“ピクルス”、“なめたけ”、“ザーサイ”、“アンチョビ”、・・・アンチョビって食べたことなかった。まあ、瓶詰め食品は、味が固まってるから、調味料の代わりになる。
だいたいいつも、ネギ味噌が作ってある。それから、ネギのみじん切りの醤油漬け。けっこう、いろいろな場面で重宝する。ネギのみじん切りの醤油漬けで焼きめし作ったら、絶品。
明日の朝、試そうと思っているのが、“しょうゆ卵”。卵の黄身をしゅうゆ漬けにしたもの。3時間ほどとあるから、今晩からつけてみよう。白身は翌日、白身のオムレツにする。少し泡立ててハムを混ぜ、塩少々で焼く。黄身だけ使う料理はたくさんあるが、この本ではきっちり白身も使い切る。
どんだけ始末に心がけても、必ず残り物は出る。でも大丈夫。それが私の、日々のつまみになる。
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