黒山山本坊『日本人と山の宗教』 菊地大樹
なんというか、越生の黒山が、かつてはそれほどまでに影響力を持った場所だったとは、まさに意外と言うほかはない。(枝野みたい?)
まあ、私の勉強不足と言えば、それまでなんだけど。・・・とりあえず、ちょっと部分的に要約。
本来、山の宗教において、山中のことはすべて、秘中の秘であった。里の人々は、その様子をうかがい知ることはおろか、聖なる領域に踏み入ることなど許されるはずもなかった。
しかし、山と里をつなぐ宗教者によって、その領域においても神仏習合が進んでいる様子などが、徐々に語られるようになる。すると、平安京においても、聖なる山林への関心が急速に高まっていく。
軌を一にして、山林修行者の集団化が進んでいく。さらに、その内部において共通の由来が語られるようになり、儀式が統一されていく。その経験や記憶は、古参から新参に受け継がれるようになり、そこに導く者と導かれる者の関係が生じる。
院政期、導く者と導かれる者との関係が、山に生きる者と里に生きる者の間にも確立していく。院の主催者が盛んに参詣したのが、熊野だった。白河院は9回、鳥羽院は21回、後白河院は34回と、盛んに熊野を参詣した。
院の熊野信仰は、瞬く間に辺境にまで浸透していった。
熊野の修験者、つまり山伏は、地方に赴いて檀那と呼ばれる信者たちを組織し、熊野へと導く。この導き役を先達という。先達に導かれてやってきた檀那衆の現地における宿泊の世話や宗教指導を行なう役割を御師という。
一般の信者は先達や御師との間に特別な関係を結び、特定の先達に導かれた檀那衆は、熊野において特定の御師の世話を受けるように決められていた。
道中における、先達の檀那に対する宗教的指導権や、特定の檀那衆を独占する御師の権利は、やがて「識」として物件化し、売買の対象にまでなっていく。
室町時代には、地方においても数々の霊山信仰が成立発展していき、人々の間にそれに対する信仰心が広く根付いていったようだ。しかし、先達や御師にとって、檀那の独占は大きな利益を生み出す権利であり、人々は、霊山を自由に参詣することはできなかったわけだ。
私が頻繁に訪れる埼玉県越生町にある黒山三滝は、15世紀に開かれた霊場だったそうだ。
この15世紀というのが、山の宗教にダイナミックな変化が生じた時期だったそうだ。里山のあり方に、山の宗教が積極的に関与し始めたことだ。
里と山の境界は、萱などの生活物資、肥料や薪炭、木材生産の場であった。越生の黒山のように、比較的新しく開かれた霊場においては、霊場がその開発の拠点としての役割を果たした。そこに活動した山伏たちは、開発においても先達の役割を果たした。
15世紀前半、この地には修験者たちが活動する拠点があり、山本坊と呼ばれたそうだ。山本坊は檀那を組織し、地域社会にも影響力を持った。
山本坊における先達としての檀那への支配権は、16世紀初頭には秩父にまで拡大している。山本坊は先達識を聖護院門跡から安堵され、その地位を確立していったようだ。聖護院門跡の威光を背負った山本坊の、地域社会への影響力は、信仰だけにとどまらなかった。
山林や村落の開発にも山本坊が主導的な役割を果たした。16世紀後半、秩父郡を領していた北条氏は、山本坊を修験を統括する年行事という役職として公認し、近隣の西戸村の開発と年貢の納入を請け負わせた。その後、江戸幕府からは西戸村・黒山村を寺領として、朱印地を安堵された。加えて、常陸国にも年行事識を許された。
黒山や西戸村を拠点とした修験山本坊の勢力は、他郡、他国にまで及ぶほど発展していった。
どうやら、江戸時代、山本坊は幕藩体制の枠組みの中に組み込まれていたわけだ。
しかし、それにしては、黒山三滝周辺に、往事の勢威を思わせるような賑わいはない。たしかに、県内外から観光に訪れる人はそれなりにいるが、かつての勢力を見せつけるような施設はない。
三滝の一つ、天狗滝が流れ落ちる川を藤沢入という、一昨年、この藤沢入を遡行した。そのまま詰めると、傘杉峠から南に伸びる尾根の途上に這い上がる。藤沢入に途中で合流する沢の側に登っていくと、大平山を経て、前述の傘杉峠から南に延びる尾根の先に出る。大平山の目前に平坦な場所が広がり、そこに役行者、前鬼、後鬼の石像がある。
ずっと唐突な感じがしていたのだが、この本を読んでみれば唐突でも何でもない。現在の黒山の様子の方が、変わり果ててしまったわけだ。
まあ、私の勉強不足と言えば、それまでなんだけど。・・・とりあえず、ちょっと部分的に要約。
本来、山の宗教において、山中のことはすべて、秘中の秘であった。里の人々は、その様子をうかがい知ることはおろか、聖なる領域に踏み入ることなど許されるはずもなかった。
しかし、山と里をつなぐ宗教者によって、その領域においても神仏習合が進んでいる様子などが、徐々に語られるようになる。すると、平安京においても、聖なる山林への関心が急速に高まっていく。
軌を一にして、山林修行者の集団化が進んでいく。さらに、その内部において共通の由来が語られるようになり、儀式が統一されていく。その経験や記憶は、古参から新参に受け継がれるようになり、そこに導く者と導かれる者の関係が生じる。
院政期、導く者と導かれる者との関係が、山に生きる者と里に生きる者の間にも確立していく。院の主催者が盛んに参詣したのが、熊野だった。白河院は9回、鳥羽院は21回、後白河院は34回と、盛んに熊野を参詣した。
院の熊野信仰は、瞬く間に辺境にまで浸透していった。
熊野の修験者、つまり山伏は、地方に赴いて檀那と呼ばれる信者たちを組織し、熊野へと導く。この導き役を先達という。先達に導かれてやってきた檀那衆の現地における宿泊の世話や宗教指導を行なう役割を御師という。
一般の信者は先達や御師との間に特別な関係を結び、特定の先達に導かれた檀那衆は、熊野において特定の御師の世話を受けるように決められていた。
道中における、先達の檀那に対する宗教的指導権や、特定の檀那衆を独占する御師の権利は、やがて「識」として物件化し、売買の対象にまでなっていく。
室町時代には、地方においても数々の霊山信仰が成立発展していき、人々の間にそれに対する信仰心が広く根付いていったようだ。しかし、先達や御師にとって、檀那の独占は大きな利益を生み出す権利であり、人々は、霊山を自由に参詣することはできなかったわけだ。
『日本人と山の宗教』 菊地大樹 講談社現代新書 ¥ 1,100 日本人と山のつきあいの歴史を、新たな視点から辿る、ユニークな山と人との宗教誌 |
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私が頻繁に訪れる埼玉県越生町にある黒山三滝は、15世紀に開かれた霊場だったそうだ。
この15世紀というのが、山の宗教にダイナミックな変化が生じた時期だったそうだ。里山のあり方に、山の宗教が積極的に関与し始めたことだ。
里と山の境界は、萱などの生活物資、肥料や薪炭、木材生産の場であった。越生の黒山のように、比較的新しく開かれた霊場においては、霊場がその開発の拠点としての役割を果たした。そこに活動した山伏たちは、開発においても先達の役割を果たした。
15世紀前半、この地には修験者たちが活動する拠点があり、山本坊と呼ばれたそうだ。山本坊は檀那を組織し、地域社会にも影響力を持った。
山本坊における先達としての檀那への支配権は、16世紀初頭には秩父にまで拡大している。山本坊は先達識を聖護院門跡から安堵され、その地位を確立していったようだ。聖護院門跡の威光を背負った山本坊の、地域社会への影響力は、信仰だけにとどまらなかった。
山林や村落の開発にも山本坊が主導的な役割を果たした。16世紀後半、秩父郡を領していた北条氏は、山本坊を修験を統括する年行事という役職として公認し、近隣の西戸村の開発と年貢の納入を請け負わせた。その後、江戸幕府からは西戸村・黒山村を寺領として、朱印地を安堵された。加えて、常陸国にも年行事識を許された。
黒山や西戸村を拠点とした修験山本坊の勢力は、他郡、他国にまで及ぶほど発展していった。
どうやら、江戸時代、山本坊は幕藩体制の枠組みの中に組み込まれていたわけだ。
しかし、それにしては、黒山三滝周辺に、往事の勢威を思わせるような賑わいはない。たしかに、県内外から観光に訪れる人はそれなりにいるが、かつての勢力を見せつけるような施設はない。
三滝の一つ、天狗滝が流れ落ちる川を藤沢入という、一昨年、この藤沢入を遡行した。そのまま詰めると、傘杉峠から南に伸びる尾根の途上に這い上がる。藤沢入に途中で合流する沢の側に登っていくと、大平山を経て、前述の傘杉峠から南に延びる尾根の先に出る。大平山の目前に平坦な場所が広がり、そこに役行者、前鬼、後鬼の石像がある。
ずっと唐突な感じがしていたのだが、この本を読んでみれば唐突でも何でもない。現在の黒山の様子の方が、変わり果ててしまったわけだ。
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