『オオカミは大神』 青柳健二
昔、名栗が秩父郡に属していた頃のこと、妻坂峠は秩父への近道として、多くの人が往来した。 しかし、道中、山犬や狼に襲われる事故が絶えなかったという。 そこで、山中の一兵衞という人が、かみ殺された人のことを供養したいと思い、地蔵を作った。 名栗村の集落に新井亀次郎という人が住んでいた。 ある時、秩父からの帰りに妻坂峠にさしかかると、「亀次郎、気をつけろ」という声が聞こえた。 そこで、オオカミに気をつけながら急いで峠を下ると、無事、家に帰ることができた。 亀次郎は、お地蔵さまが危険を知らせてくれたと思い、峠の地蔵に屋根を作った。 |
今、妻坂峠に行ってみても、お地蔵さまに屋根はない。
ニホンオオカミは、人間を襲ったのか。絶対とは言い切れないが、人を襲うのは、きわめて稀なことらしい。ならば、なぜ、絶滅するまでに駆除、捕獲の対象にされたのか。
江戸時代中期、交易が盛んになると共に、まずは長崎に狂犬病が持ち込まれたようだ。ほんの30年ほどの間に全国に広まり、山間のオオカミにも伝播したらしい。
狂犬病にかかった犬やオオカミは、物事に極めて過敏になり、狂躁状態となって目の前にあるもの全てに噛みつく。その後、全身麻痺が起こり、最後は昏睡状態になって死亡する。
狂犬病の蔓延を原因に、人間との間にトラブルが発生したことで、オオカミは駆除されることになり、絶滅したという。また、魔除けのため、オオカミの骨を祭る信仰が江戸から明治にかけて流行し、大量に捕獲されたという話もある。
しかし、実際に、妻坂峠に残るお地蔵さまの伝説もある。
『オオカミは大神』 青柳健二 天夢人 ¥ 1,650 ニホンオオカミに対する関心が高まる昨今、各地に残る狼像を追ったフォト・ルポルタージュ |
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妻坂峠のお地蔵さまの伝説には、“山犬や狼”とある。
日本では、この“山犬”と“狼”を、明確に使い分けているわけではない。実際、“山犬”という生き物を、動物園で飼育しているという話は、聞いたことがない。
山犬とは、「山にいる犬」程度の理解で、真正のニホンオオカミを指す場合もあれば、野犬、野犬と狼の雑種もいたようだ。野犬なら、人間を襲うだろうか。
実は、野犬3匹に、行く手を塞がれたことがある。たまたま、秩父の実家に帰ったとき、おそらくその時はもう塞がれていたはずの武甲山の北側の斜面を登る道に向かい、手前から西に連なる尾根を歩く金毘羅ハイキングコースを歩いたときのことだ。
山の神を過ぎて、しばらく行ったあたりで、10メートルほど先に野犬3匹が道を塞いでいた。危険を感じて、下に落ちていた木や石ころを拾い、向かい合った。1匹が、こちら見たまま左右に身体を振っていたのを憶えている。
しばらくして、身体を振っていた犬が、私から見て左手の薮の中に駆け出すと、残る2頭もその後についていった。その後、熊を目撃したり、イノシシとすれ違ったり、カモシカとあわやぶつかりそうになったことはあるが、その野犬との遭遇が一番怖かった。
飼われたいた大型犬が、人を襲って死なせてしまった例はある。エサとするためかどうかは分からないが、襲うことはあるようだ。野犬なら、「なおのこと」ということになるだろう。妻坂峠の“山犬や狼”は、そういった野犬を指したのかもしれない。
送り狼の民話は紹介したが、狼は自分のテリトリーに入った人間についていく習性があったようだ。監視対象ということかもしれないが、それでも人間から手を出さなければ、襲いかかってくることはないようだ。
海外の牧羊をする国々では、家畜を襲う狼は害獣として恐怖の対象になった。しかし、日本では田畑を荒らす鹿やイノシシを駆除してくれる、ありがたい山の動物だった。
江戸時代に、秩父でお犬さま信仰が高まったのは、三峯神社に入山した大僧都が、境内にひしめく狼に神託を感じ、御眷属と称して、狼のお札を配付してからだそうだ。
もともとの、益獣としての信仰に加え、“犬”は火事がボヤのうちに気づいてくれる、侵入した泥棒に吠えかかってくれることが加味されて、お札は火防・盗賊除けの霊験も発揮するようになる。さらに、「老いぬ」に通じて健康・長寿、戌は安産・多産で安産・子授けの霊験も加わって、人々の信仰を集めた。
さらに、もう一つの背景があると、私は感じている。
三峰神社や御嶽神社のある奥秩父や奥多摩は、関東地方の水源である。水、材木、それら山の恵みを受けて、里の生活があることを、人々は良く理解していたのだろう。
今の私たちは、どうだろうか。
“犬”に象徴される山の信仰を、もう一度、取りもどすべきだと私は感じるのだが。
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