シャルル・ド・ゴール
シャルル・ド・ゴール 1890~1970
幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱いて育つ。長じては軍人の道に入る。第一次世界大戦においては大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮する。その経験から、以後の戦争は塹壕戦ではなく機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊の重要性が高まると主張し、その研究に勤しむ。第二次世界大戦ではドイツの電撃作戦にあっけなく屈するフランス軍だが、ド・ゴールの指揮する第四師団の実は、ドイツ軍部隊に脅威を与え、一矢報いる。
1941年10月のパリ陥落後は、脱出先のロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的なヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけ、自身レジスタンスに邁進する。1943年にはアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会の指導者となり、翌年、委員会がフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、国民議会は満場一致で彼を首相に選出する。
首相時代には、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。しかし、1946年に突然辞任。第四共和政が多党乱立で混乱したことが原因。その後政治改革をめざすが、1955年、政界から引退。
1958年、フランスはアルジェリア独立問題で混乱。政府の要請を受けて首相に就任。ド・ゴールはこれを念願実現の好機として、大統領に強権を与え議会の力を抑制する新憲法を立案、フランス第五共和政を成立させる。ド・ゴールはその初代大統領に就任した。以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進する。
「フランスは偉大さなくしてフランスたり得ない」
米ソ両超大国の影響力が強まる中、ド・ゴールはフランスが国際情勢の変化に右往左往しないという意味での“自律性”の確保を模索した。ド・ゴールは、その解放に際して米英両国に従属しない姿勢を示すことで、対ドイツ戦勝国としての立場と国連安保理常任理事国としての待遇を手にした。
「かつては光栄あるものだったが、今は費用のかかるばかりのものとなった」
1954年以降7年にわたって続くアルジェリア独立戦争と、植民地の保有そのものに対して言った言葉。大戦終結時で、アルジェリアに居住するフランス人は100万人。アルジェリアの独立を願う者も、植民地存続を願う者も、同じようにド・ゴールに期待した。彼は大統領権限を背景に、アルジェリアの独立を進めた。たとえそれが、かつて自分を支持してくれた層であっても、フランスの利益のためには、やすやすと彼らを裏切った。そして独立後、フランスに親和的なアルジェリアを残した。
「フランスは希望に満ち、国益に一致し、未来に備えて、無秩序、混乱のアルジェリアではなく、平和で責任あるアルジェリアに向かって決定を下そうとしている。だから私はフランス人たちに《ウィ》の投票を要請する。ためらわずに、圧倒的な《ウィ》を。」
アルジェリア独立をめぐる、国民投票で。本国在住有権者の75%、アルジェリア在住有権者の70%が、ド・ゴールを支持する《ウィ》の票を投じた。
「私がなすべきことは、・・・公共の利益が全階層の惰性と主張に優先するよう求めること、繁栄をめざす努力の目標は、個々のフランス人に、より安楽な生活を与えるよりはフランスの安寧、力、偉大さを打ち立てることにあることを示すことであった。」
「国葬はいらない。・・・墓銘は、《シャルル・ド・ゴール 一八九〇 ― 》とし、それ以外には何も記してはならない。・・・私は栄進、位階、表彰、勲章の類はいかなるものであれ、国の内外を問わず拒否するものであることを宣言する。」
彼の望みは果たされなかった。彼の葬儀は国葬として行われ、フランスの表玄関である空港はシャルル・ド・ゴール空港、パリ中心街のもっとも有名な広場にはドゴール広場の名前を冠した。 >
幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱いて育つ。長じては軍人の道に入る。第一次世界大戦においては大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮する。その経験から、以後の戦争は塹壕戦ではなく機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊の重要性が高まると主張し、その研究に勤しむ。第二次世界大戦ではドイツの電撃作戦にあっけなく屈するフランス軍だが、ド・ゴールの指揮する第四師団の実は、ドイツ軍部隊に脅威を与え、一矢報いる。
1941年10月のパリ陥落後は、脱出先のロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的なヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけ、自身レジスタンスに邁進する。1943年にはアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会の指導者となり、翌年、委員会がフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、国民議会は満場一致で彼を首相に選出する。
首相時代には、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。しかし、1946年に突然辞任。第四共和政が多党乱立で混乱したことが原因。その後政治改革をめざすが、1955年、政界から引退。
1958年、フランスはアルジェリア独立問題で混乱。政府の要請を受けて首相に就任。ド・ゴールはこれを念願実現の好機として、大統領に強権を与え議会の力を抑制する新憲法を立案、フランス第五共和政を成立させる。ド・ゴールはその初代大統領に就任した。以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進する。
「フランスは偉大さなくしてフランスたり得ない」
米ソ両超大国の影響力が強まる中、ド・ゴールはフランスが国際情勢の変化に右往左往しないという意味での“自律性”の確保を模索した。ド・ゴールは、その解放に際して米英両国に従属しない姿勢を示すことで、対ドイツ戦勝国としての立場と国連安保理常任理事国としての待遇を手にした。
「かつては光栄あるものだったが、今は費用のかかるばかりのものとなった」
1954年以降7年にわたって続くアルジェリア独立戦争と、植民地の保有そのものに対して言った言葉。大戦終結時で、アルジェリアに居住するフランス人は100万人。アルジェリアの独立を願う者も、植民地存続を願う者も、同じようにド・ゴールに期待した。彼は大統領権限を背景に、アルジェリアの独立を進めた。たとえそれが、かつて自分を支持してくれた層であっても、フランスの利益のためには、やすやすと彼らを裏切った。そして独立後、フランスに親和的なアルジェリアを残した。
「フランスは希望に満ち、国益に一致し、未来に備えて、無秩序、混乱のアルジェリアではなく、平和で責任あるアルジェリアに向かって決定を下そうとしている。だから私はフランス人たちに《ウィ》の投票を要請する。ためらわずに、圧倒的な《ウィ》を。」
アルジェリア独立をめぐる、国民投票で。本国在住有権者の75%、アルジェリア在住有権者の70%が、ド・ゴールを支持する《ウィ》の票を投じた。
「私がなすべきことは、・・・公共の利益が全階層の惰性と主張に優先するよう求めること、繁栄をめざす努力の目標は、個々のフランス人に、より安楽な生活を与えるよりはフランスの安寧、力、偉大さを打ち立てることにあることを示すことであった。」
「国葬はいらない。・・・墓銘は、《シャルル・ド・ゴール 一八九〇 ― 》とし、それ以外には何も記してはならない。・・・私は栄進、位階、表彰、勲章の類はいかなるものであれ、国の内外を問わず拒否するものであることを宣言する。」
彼の望みは果たされなかった。彼の葬儀は国葬として行われ、フランスの表玄関である空港はシャルル・ド・ゴール空港、パリ中心街のもっとも有名な広場にはドゴール広場の名前を冠した。 >


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