めんどくせぇことばかり アメリカにとっての大東亜戦争 『ルーズベルトの責任』著者ビーアドの評価
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アメリカにとっての大東亜戦争 『ルーズベルトの責任』著者ビーアドの評価

連邦議会真珠湾委員会が公表した記録を見れば、ハル国務長官が繰り返し主張したように、ルーズベルト政権が、日本との外交関係を、少なくとも大西洋会談から1941年12月7日までの間、一つの強い方針にのっとって遂行していたことは明白だ-それは日本政府とは一切妥協しない、という方針である。だが、その方針は日本に対する要求という点において、8月17日よりも11月の時点の方が、より広範なものとなっていた。8月17日の日本への宣言は、大統領が極東での支援を求めるチャーチル首相の訴えを聞いて大西洋会談で合意をした結果として出されたものだった。合意に沿って、宣言の対象範囲は極めて限られていた。それは日本に対して、「武力又は武力の脅威によって近隣諸国を軍事的に支配する政策ないし計画に基づく施策をこれ以上推進」しないよう警告し、さもなければ対抗措置を講ずると脅かすものであった。それは日本に中国やインドシナから全面撤退することも、中国の領土と行政の保全を遵守することも、中国で通商の機会均等を実践することも、南京の傀儡政権への支援をやめることも、中国での治外法権を放棄することも、命じてはいなかったのである。

要するに、1941年8月17日のアメリカの宣言は単に、日本政府に対して極東でこれ以上の侵略行為を行わないよう要求しただけのものだった。それは、ハル国務長官がアメリカの「諸原則」として発表した世界的道議や経済活動の全般的なシステムを日本に押しつけようとするものではなかった。この条件のもとでは交渉の基盤は限られていた。東京の高官も「面目を失う」ことなく、また政権崩壊や暗殺の危険を招かずに、交渉することができた。

1941年11月20日の日本側の暫定協定の申し入れは、少なくとも形の上では、東南アジアにおける侵略の「施策をこれ以上推進」することをやめる可能性を、交渉の拠り所として提示していた。というのも、ルーズベルト大統領は当初、この申し入れがそうした可能性を確かに提示しているものだと考えた。というのも、大統領はハル国務長官に送った日本との調停に関する手書きの大まかなメモでそのことを指摘していたからである。国務省極東部の高官たちは、暫定協定が望ましいという結論に達し、ハル国務長官が検討するたたき台としてアメリカ側の提案の草稿を作成した。財務長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニアはこの機会を、二正面戦争を回避する後期と確信したと見え、日本に譲歩する案を策定した。これは国務省極東部の幹部らの賛同を得て、同部長からハル国務長官に、慎重に考慮すべきものとして提言された。
 
しかし、ルーズベルト大統領の提案も、国務省極東部やモーゲンソー財務長官のそれも、ハル国務長官に却下されたのである。ハル長官はそれらの提案よりも、11月26日の覚え書きに提案された一連の措置をとることを選んだのであった。この覚え書きは大統領の承認を経て同日、日本の両大使に手渡された。これがスティムソン陸軍長官やワシントンのイギリス大使、その他交渉に深く関係する当事者らと事前に協議されることはなかった。この行動はその重大性が十分に自覚された上でとられたものだった。というのは、ハル国務長官は翌日、スティムソン陸軍長官に対して、この問題については自分は「手を引いた」と言った際に続けて「事態はいまやあなたとノックスの手中にある-陸軍と海軍の、ね」と付け加えたからだ。
ルーズベルトの提案
11月6日以降、スティムソン長官との間で「休戦」の是非が検討され、大統領の考えが、メモの形でハル長官に送られた。
1 合衆国は経済関係を再開する-現時点では多少の石油と米-後日、拡大する。
2 日本はインドシナ、満洲国境、南部(蘭領、英領、シャム)のどこにもこれ以上部隊を派遣しない。
3 日本は合衆国がヨーロッパで参戦しても、三国同盟を行使しないことに同意する。
4 合衆国はジャップを中国と引きあわせて、話し合いを持たせる。ただし、合衆国は両者の協議に一切、加わらない。
 
ハル国務長官が1946年にファーガソン上院議員の質問に答えて、この発言について言い逃れをしようとして、自分の見解としては、日本が覚え書きを最後通牒だとはみなさず、さらに対話を続けようと戻ってくる可能性はわずかながら常にあった、と強く主張したのは事実である。またハル長官が最初から最後まで、11月26日にとった行動が外交プロセスを終わらせ、戦争を招くものとみなしていたことを認めようとしなかったのも事実である。しかしながら、この大統領の承認を得た上での11月26日の決定的な決断に関するハル長官自身の発言が、太平洋での平和を見据えたさらなる交渉が持たれることへの長官の期待が、ほとんど存在しなかったと言えるほど微々たるものであったことを疑いようもなく示唆しているのであった。それもそのような期待がかりに存在したとして、である。

いずれにしても、1941年11月26日にルーズベルト大統領とハル国務長官がどのような期待を抱いていたにせよ、同日、日本の大使らに手渡された文書は条件面において広範囲に及ぶ内容だった。確かに、それは日本がイギリス、オランダ、アメリカのそれぞれの勢力圏に向けてこれ以上いささかでも措置を講じた場合に適用されるとした点において、8月17日の限定的で単純明快な宣言に部分的に沿ったものではあった。しかし、それは問題とした範囲の広さという点において、大西洋憲章を新たな世界秩序への青写真とみなしていたすべてのアメリカ人と同時に、極東で門戸開放政策を実施する手段として戦争を利用したいと考えていたアメリカの帝国主義者を満足させるのに十分包括的な内容だったのである。

11月26日の文書は巧みに構成されていた。その第一部-「オーラル・ステートメント」-は「平和、法、秩序及び国家間の公正な関係の原則」に基づいた和解に「できれば」達することを目指して、ここ数ヶ月にわたって行われた対話について態度は穏やかに言及している。そして日本側の暫定協定の提案を「太平洋地域での法、秩序、正義に基づく平和の確保」という目的に寄与しそうにないとの理由で退けている。その上でこの口述書は同時に提示された案について「われわれのさらなる対話の中で解決されるべきものと本政府がみなしている計画の一つの実験例証」として触れている。

この部分、この口述書の中には、定義の上では確かに、最後通告はなかった。そこには前日の11月25日に大統領とハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル陸軍大将、そしてスターク海軍大将が、いかにしてわが国に甚大な危険を招くことなく日本が最初に発砲する状況に「導く」かについて議論していたことを示すヒントはなかった。そこにはハル国務長官がこの覚え書きを、翌日にスティムソン陸軍長官に対して事態は陸軍と海軍の手中にあると述べる根拠になるとみなしていることを示唆するものはなかった。

1941年11月7日から25、26日までの、ルーズベルト大統領とハル国務長官が重大な決定にいたろうとしている時期、これに影響をおよぼすような数々の状況が出現し、二人はそれらに考慮することを求められた。大統領はこの頃、当時のフランシス・パーキンス労働長官が言うところの大統領の「極端な道義的問題」、そして1940年の選挙公約、とりわけ、アメリカの軍隊は「攻撃を受けた場合を除いて」戦闘のためにアメリカ大陸と周辺海域の外に派遣されてはならない、という自身が支持した民主党政治要項の宣言に起因するジレンマに直面していた。道義的問題は1941年10月と11月の間に減退するどころか、増幅されたのだった。

大西洋における「砲撃戦」は本格的で正式に認知されるところの戦争には至っていなかった。駆逐艦グリアー号やカーニー号の「発砲」事件をめぐり、デービッド・ウォルシュ上院議員を長とする上院海軍委員会が行った調査は、大統領の10月27日の宣言-「アメリカは攻撃された」-を貶めるような結果をもたらし、この発言そのものが大統領の属する民主党の多くの議員の間に疑念を引き起こした。一方で、ほとんどの共和党員には、この表現を使うこと自体が二枚舌の証拠のように受け止められた。11月7日、日本対しがついに暫定協定の提案をも含む日米交渉の最終局面を開いた時、中立法の修正案をめぐる連邦議会の長期に渡った論戦がちょうど終わろうとしていた。中立法が上下両院で討議されていた間、政権の広報担当者は法案が戦争を求めるものではなく、回避するために考案されたものだと説明していた。そして法案が両院で最終的に投票に付された際の反対票は不吉なほど多かった。大統領が11月17日に法案に署名したときは激昂した討論の残響がいまだに連邦議会内でこだましていた。ハル国務長官はそのことをよく覚えていたに違いなかった。というのは、後に彼は、もし、大統領が真珠湾直前の最後の緊迫した日々に連邦議会に戦争宣言を要請していたならば、「この国の強力な孤立主義者のグループがおそらく、『戦争屋』だとか『国家を戦争に引きずり込む』といった彼らがしばしば繰り返してきた避難を改めてもちだしただろう。」と主張していたからだ。

このように、ルーズベルト大統領とハル国務長官が11月26日の覚え書きを日本に送ることを決めた時、大西洋で本格的な戦争に突入する可能性を考えても、連邦議会が太平洋での戦争を 宣言する見込みを考えても、状況は好ましいと言うには程遠かった。しかし、二人が傍受電文や他の情報源から得ていた情報を勘案すれば、彼らには覚書が拒否され、その結果として起こる状況の行き詰まりが、最終的には戦争に至ると信じるだけの理由があった。彼らがそれ以外の事態を予想する理由はほとんどなかった。あるいはまったくなかった、というのは間違いない。

大統領とハル国務長官が、事の顛末が示したように、日本との対立を外交の領域から戦争の領域へと転換させることとなった重大な決定を下した際の環境はこのようなものであった。言うまでもなく、連邦議会委員会が明らかにした証拠によれば、大統領と国務長官は決定を下す前も、下した時も、下した後にも、戦争を積極的に求めていなかったとしても、戦争を予期しており、それを予期した上で、日本を「誘導」し続けて、連邦議会に戦争を遂行する権限を要請することなく、「結末」を待ち続けたのであった。


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テーマ : アメリカ合衆国
ジャンル : 政治・経済

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こんな本、あんな本


この本、今でも売れてるんですね。何時頃読んだんだろう。記憶も定かじゃないけど・・・。この男の子が嫌いでね。涙が出た。白血病で入院してた女子高生にこの本を送ったことがある。感想、聞かせてもらってないな。



中学1年で読んだと思うんだけどな。アレクサンダーの伝記。夏休みの読書感想文で郡市の大賞を取ったんだ。「アレクサンダーによって異なる国や民族が一つの領域にまとめられたように、いつかこの世界も・・・」・・・なんてことを書いた。なんだか、アメリカがやろうとしてるよね。・・・当時はそれがいい事のように思ってた。



高校で山岳部に入ったんだよね。もとが山ん中だからさ。そんでもって山岳部っていうのもどうかと思ったんだけど。この本を読んじゃったもんでね。入部したての1年の夏休み、北鎌尾根から槍に登った。・・・記憶に誤り。取り付いただけだった。



今みたいに女の裸が氾濫している時代じゃなかったわけですよ。私の中学生時代っていうのは・・・。そんな時代なのに、中学校の図書館に置いてあったんですからね。この表紙の本が・・・。手にした理由はもちろんこの表紙の女。・・・もちろんそんなことは誰にも言えない。ただ、以前から無類の本好きであったことは功を奏した。それに加えて、私は以前からのSFファンということになった。この本を不自然なく手にするために・・・。
やられた本


























































































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